2017_09
19
(Tue)20:33

なんか、へんな軸。

面白そうなので、ちょっと手を出してしまった。

 

P9193308 (384x512)

 

なんて書いてあるのか。

上は上でひとつの熟語。

下は下でひとつの熟語。

 

上。

右の文字から左の文字へつづいている。 

P9193309 (448x336)

 

P9193310 (448x336)

 

ま、なんとなくわかるけど・・・^^

右の文字を、右90度回転。

P9193309 (448x336)

 

して、左右を反転すると・・・

P9193309 (448x336) - コピー

 

「雲」だった。

 

同様に、左は、そのまま反転・・・

P9193310 (448x336) - コピー

 

「龍」。

「雲龍」。

こういうの、鏡文字とか、逆さ文字とか、横倒し文字とか。

調べてみると、昔からあるようで、えらいお坊さんとかも、時々こんな風な文字を書いたり、あるいは、自分の名前を鏡文字にしたり、なんて、遊び心でしてたらしい。

これも、そんな軸、なのかな。

作者は、竹豊博授 とかいう人らしいが、詳細など全く不明。

ま、とにかく、あそびでこんなのを書いたんだろうね。

軸は、とても粗末。

自分で作ったのかな、というくらい。表装も紙。

軸先も紫檀風だが、粗末な木。

掛緒の感じからして、江戸末くらい?

 

上の「雲龍」。なんとなく、雲の中野龍に見える?

 

さて、下の二文字はかなり画数が多い。

右。

P9193311 (448x336)

 

左。

P9193312 (448x336)

 

よく見ると、どうやら、どちらにも「鳥」偏があるような。

と、ここまで来れば、もう、なんて書いてあるか、わかるね^^

 

ちょっと、洒落が効いてる?(笑

右の文字、「雲」同様、右90°回転して、反転。

P9193311 (448x336) - コピー

 

「鸚」。

とくれば・・・

 

左、180°回転・・・

P9193312 (448x336) - コピー

 

「鵡」。

 

ふたつで、「鸚鵡」。

洒落が効いてる、というのは、ただの鸚鵡返しではなかったのか、と(笑

 

それにしても、「鸚鵡」の方の書き順がよくわからない。

目で追っても、途中で、まかれてしまう・・・。

 


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2017_09
13
(Wed)01:26


独楽棗、というのがある。

まわる独楽をかたどったとも。もともとは唐物から、今のような物になったとも。

 

P9123265 (512x384)

 

ただ、この独楽棗には、二手ある。

ひとつは、塗師作の物。

もうひとつは、指物師作の物。

 

たいてい、棗と言えば、塗師作の物。

ところが、この独楽棗には指物師作の物があって、なぜだろう、塗師作の物となにがちがうんだろう?

と疑問だった。

もちろん、指物師作の棗は、独楽棗の他にもいろいろある。

ただ、多くは、木地を活かした物。

そう、うちのあの摺り漆の平棗のような、そんなものだ。

それに対して、独楽棗は、しっかり漆が塗ってある(ように見える)。

摺り漆や拭き漆とちがって、塗ってあるのはマットな漆だ。

 

宗哲作の独楽棗を見ると、カチッとしていて、いかにも塗師作というのは一目瞭然。

こういう塗ってある棗は塗師の領分だろうに、なのに、なぜ、指物師にわざわざつくらせるのか?

 

あるいは、こういう塗ってある棗で、指物師の腕の見せ所、ってあるのだろうか?

とにかく、何でわざわざ漆を塗って、木地などまったく見えない棗を、指物師が作るのか?

 

と、そんなことを、独楽棗を見ると思ったり。

塗ってあるとはいえ、轆轤で木を挽くのは指物師の仕事だから、薄く薄く挽いて、そこが腕の見せ所、というのだろうか。

独楽棗は、ミシュランのキャラクターのように段々になっているので、あのように薄く木を挽くという、そこが腕の見せ所、というわけなのだろうか。

 

などなど、いろいろ思っているうちに、ちょっと、見つけてしまった。

 

14代駒澤利斎作の独楽棗。

駒澤利斎とは、千家十識の指物師。

その利斎さんの作った独楽棗。

P9123264 (512x384)

 

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なんか、ちょっと、塗りがぎこちない感じがする。

 

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合口のとことか、黒い線が入っていたり。

 

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また、黒と白の間に、茶色いのが入っていたり。

ネットの画像では、これがなにかわからなかった。奥さんの説では、白い上に黒い漆が被っていて、それが歳月が経って透明になって、下の白いのが透けて見えているんじゃないか、と。ようするに、下手、だって。

 

ぼくは、そうではない、わざとこうしているんだ、と。

とにかく、どっちにしろ、そのぎこちない感じがなんか、気に入ってしまった。

たいていの独楽棗は、結構、ぴしっと塗ってある。

こんなふうな茶色の線が入っているものなんて、とりあえず、お目にかかったことがない。

また、合口のところもおもしろい。

たいていの独楽棗は、蓋のところと本体のところは、色の順番そのまま。

なので、普通なら、この棗の場合、蓋の方から、黒、赤、黄、緑、白、と蓋の縁が白ならば、次の本体の合口のところは、黒、となる。

ところが、この独楽棗は、蓋も本体も白。

こういうのも、見たことがない。

どうしてこうなのか、といえば、よくわからないけど、もしかすると、唐物の独楽棗を意識しているのかも。唐物はこの合口の部分、蓋と本体が同じ色だから。

 

また、箱書きも面白くて、気に入ってしまった。

大徳寺506世の雪窓さんというお坊さんの。

というのがではなく、「己亥春」と年が記してあるところ。

箱書きに年が記してあるなんて、これもあまりみない。

(極め書きの方ならよくある)

調べてみると、雪窓さんが大徳寺506世だったのは、1955年~1966年。

その間の「己亥」というと、1959年ということになる。

素直に考えて、つまり、この独楽棗は1959年生まれ(?)ということで^^

この1959年というのは、結構、ぼくの生まれ年にちかい。

まあ、ぼくの方がちょっと若いけど^^

けど、こういう中古のお茶の道具で生まれ年までわかるというのはなかなかないこともあって、なんとなく、親近感も。

また、「独楽」ではなく、「古満」という表記にも、親しみが沸く。

 

そういうわけで、とうとう、買ってみることにした。

ただ、さすがに、「やっちまったかな・・・」とかも思いながら、でも、何ともいえないこの親近感・・・。

 

届いてみて、つかってみて、「あぁ」と。。。

 

P9123284 (384x512)

 

そう、なぜ、指物師に作らせるのか、あるいは、指物師作の棗としての意味や価値、というのがよくわかった。

 

これはほんとに、素敵なよい棗だ。

手に持ってみればわかる。

さわってみればわかる。

掌に、指に伝わってくる、木のぬくもりややさしさ、やわらかさ。

ふわふわとした感じ。

そう、木工品なのだ。

半月に持ったり、清めたり、胴を持って蓋を取ったり、蓋を置いたり、蓋を閉じたり・・・とにかく、扱っている動作の度につたわってくる感触、さらには、たつ音まで、どこをとっても木工品の手応え、感触、感覚。

こんな感触は、塗師作の棗にはない。

塗師作の物は、とことん、漆。隅から隅まで、硬い漆の感触。P9123282 (512x384)

 

しかも、この独楽棗は、塗ってあるのに・・・。

 

この感触・・・そう、この柔らかく、ぬくもりのある、やさしい木の感触、これは、子どものころに遊んだ木製の積み木のあの感触のよう。

もちろん、子ども向きの積み木なんかよりも、繊細で、かるく、もっともっとやさしくやわらかいのだが、でも、まさにあの積み木の感触。

なんとも、郷愁を誘う、この独楽棗。

プルーストの「失われた時を求めて」では、紅茶に浸したマドレーヌの香りが幼い頃の記憶を蘇らせるという、あのあまりにも有名なシーンがあるが、ぼくの場合は、駒澤利斎の独楽棗の感触が幼いころの記憶というより、幼い頃に触れたものの感触を蘇らせ、郷愁をさそう。

なんとも懐かしい感触がこの独楽棗に。

 

色も、いかにも子どもが好きそうな色。

幼い子どもは、中間色を見分けられないので、ああいった原色が好きなわけだけど、そんな子どものっぽい色使い。

そもそも、独楽というのが子どもの玩具なわけで。

その独楽をかたどった棗の、この、積み木のやさしく、やわらかく、ぬくもりのある木の感触。

あまりにも似つかわしすぎる。

 

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独楽は回る。

このまわる独楽の意匠は、循環する時間を表しているようでもある。

めぐるめぐる時と、幼い頃の郷愁、そして、そのときの手触り。

ぼくにとっては、とても意味のある棗になった。

還暦とかで使ったら、とくに、その意味が際立ちそう。

 

「コマ」は、「独り」「楽しむ」と書いて、独楽。

 

  駒澤利斎の古満棗で独りお茶を楽しむ 

 

と、くだらないダジャレもしてみたかった(笑

(いや、ぼくの「ゆる茶」そのものか)

 

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2017_09
08
(Fri)23:21

春に使っていて、来たときとすこし雰囲気がちがってきたハケメの肌。

 

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柚子肌、あるいは、蜜柑肌にはかわりないけど、なんとなく、むっくりとして、華やかというよりはあでやかになってきた。

 

そして、最近、ハケメの肌は、こんな言葉を思い出させるようになった。

 

 そもそも、柚子肌と岩肌とか、それは釜が古くなって肌が荒れてきたのを、柚子に似ているとか岩に似ているとかいうことで、数寄者がつけたもの、とか。

 

つまり、柚子肌、というのは、はじめは挽き肌とかなまず肌とか砂肌とかだった釜肌が、経年劣化によって荒れてきた、そのある状態を表現したもの。

というのが、この頃のハケメの釜肌を見ていると実感できる。

 

まあ、うちのハケメは、肩のところとか、凸の部分はつるっとしているので、なまず肌という設定なのかな?

そのなまず肌の釜が、使用と経年劣化によって、表面のあちこちが剥がれ落ちて、こんな状態になったんだ、と。

歳をとった釜のある時の状態。

 

たとえば、特にそう感じるのが、右肩のところとか。

 

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P9083241 (512x384)

 

春にはあまりそんな風に感じなかったが、このごろは、そんな風に見える。

まあ、ほんとうに釜が朽ちていく過程でこんな釜肌を呈するのかどうかはよく知らないけど、とにかく、朽ちていく過程のある状態を表したものである、というのを実感する。

(朽ちていく過程というなら、底の内側が顕著。ハケメは岩肌のようだ)

 

春には、柚子肌として作られたもの思ったし、思えたが、いまは、なまず肌なり砂肌なりが朽ちてこのような状態になったもの、と、思えてしまう。

人為的に作られたのではなくて、自然にこの状態になったのだと。

 

朽ちていく過程のある状態そのものではないにしても、様式化したものなのだろう。

 

釜肌だけではない。

じつは、このハケメの場合、蓋も、剥落したような表現がしてある。

 

P9083250 (512x384)

 

P9083251 (512x384)

 

釜肌について、柚子肌云々のことは知ってはいたが、実物で実感したのは初めて。

しかも、このハケメでは、そのことを踏まえて、蓋まで剥落したようにしてあるわけで。

 

鉄が朽ちていくのにどのくらいの時間がかかるのか。

まあ、条件によってもちがうだろうが。

とにかく、釜の肌は時の経過とそれによってある状態になった、朽ちてきた釜の状態を、釜の肌の状態を様式的に美しく表現している、ということ。

 

対照的なのは、うちのでは、亀甲紋の棗釜。

あれは、そういう美を追究しているわけでもないし、釜自体、時を経た釜ではなく、若い釜を表現している。

 

とにかく、いままで、こんなふうに釜肌を見ることがなかった。

たとえば、柚子肌なら柚子のようかとか、岩肌なら岩のようか、とか、そういうふうにはみていたけど、朽ちていく過程のある状態、ある時、というふうにはみていなかった。

し、実際の釜を見て、そんなふうに感じることもなかった。

 

このハケメの場合、ある程度時を経た、(中年くらい?の)釜(肌)を表現しているのだから、蓋も剥落させている、というのは、とても筋が通っている気がする。

釜肌とはなにか、ということで、それが時を経た釜のある状態を表しているという本来の意味に沿って、釜の蓋も剥落させている、ということ。

 

別の言い方をすれば、柚子肌の釜を作ったのではなく、もともとはなまず肌だの砂肌だのだった釜が、時の流れのなかで今のような状態になった、その状態を表現している、ということ。

いままで、そんなことを実感したことがなかったので。

 

こんなふうに蓋に剥落が表現してあるのを、柚子肌やあらしを、ただ侘びているとかいうのではなくて、時の流れのなかでそんな状態になった、それを表現していると捉えてあらためて釜を見てみると、そして、その釜を据えるお茶というのを見直してみると、またなかなか面白いかと。

 

また、釜が面白いのは、新品なのにこのような時の流れの表現をになっている、になわされている、ということ。

新品なのに、朽ちた肌、荒れ、剥落。

お茶の他の道具で、新品なのに時の流れをになわされてるものって、ほかにあるだろうか?

時の流れを、様式として、表現することをになわされている道具がほかにあるだろうか?

道具ではないが、対照的なのが、花か。

花と釜。

 


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