2011_11
10
(Thu)21:44
 また、Bellissima
 昨日、この映画は、ドニゼッティのオペラ「愛の妙薬」の曲をうまく使っている、という事を書いたけど、今日、またまた「愛の妙薬」を聞いていたら、もっといろいろと面白いことに気づいた(ま、僕だけの思い込みかもしれんけどw)。
 
 というのは、曲をうまく使っているだけではなくて、もう、ほとんど登場人物なんかを下敷きにしている、って。
 Bellissima の主人公であるお母さん マッダレーナ は、「愛の妙薬」の ネモリーノ そのもの。
 マリア は、 アディーナ。
 ベルコーレ は、マッダレーナの夫の スパルタコ。ラスト近くで、家の頭金にするはずだった貯金をつかってしまったマッダレーナを許す、心優し夫は、まさに、結婚の約束を破ってネモリーノを選ぶアディーナを許す、ベルコーレそのもの。
 そして、「愛の妙薬」に詐欺師ドゥルカマーラが出てくるように、Bellissima にも詐欺を働くアンノバッティなんてのも登場する。そう、関係者に根回しするともちかけて家の頭金をまんまとだまし取って、バイクを買ってしまう。
 
 でも、Bellissima は、逆戻りしていく。
 「愛の妙薬」は、最後は、ネモリーノのことをアディーナが受け入れる。ただの愚か者じゃない、ネモリーノのその愚かさは自分への愛ゆえ、と気づき、ハッピーエンド。
  Bellissima は、この愚かさからはじまる。というか、親ばかさを描いていくわけだが、マッダレーナは自分の親ばかな愛情を娘のためだと思い込んでいるところから、はじまる。だから、マリアも自分のことを好きだろうと、たぶんそんなふうに思い込んでいるところからはじまる。ところが、それが、ラストで、孤独になる。というか、マリアに自分の思いは伝わらないまま、映画は終わる。だから、「Quant e bella,quant e cara!」となる・・・。
 映画の始まりが、ジャンネッタのあの曲、で、時間が逆戻りして、、「Quant e bella,quant e cara!」。
 だから、マッダレーナは夫と仲なおりする。つまり、「愛の妙薬」では、アディーナとベルコーレは結婚式のであげるのだから。
 だから、もしかすると、Bellissima は、一見喜劇を装った悲劇、かも。

 
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2011_11
09
(Wed)22:19
 BSでやってた、ヴィスコンティの映画。
 1951年。
 
 で、Bellissima と聞いて、何を思ったか、というと、ドニゼッティの「愛の妙薬」の一場面。
 ネモリーノが、ドットーレから「愛の妙薬」(じつは、ただの安ボルドー)をやっと手に入れて、酔っ払っていい気分で出てくるあの場面。
 手に入れたとはいっても、実は、恋敵のベルコーレ軍曹の率いる軍隊に入隊することで得た金で買った妙薬。
 それを飲んで、いい気分で現れる。
 そこで「E Bellissima!」(E のうえに チョボがある) と歌うところがあって、ベリッシマ という音がリンクしたってわけ。
 
(Bellissima は、belloe の絶対最上級。映画の中では、「美少女コンテスト」とも掛けてある。「もっとも美しい女性」という意味だと、ネットの映画解説には説明してある。たぶん、主人公である母親((マッダレーナ))のことを言っているのだろう。が、どうもそれだけじゃないと、思ったり)
 
 で、映画を見始めると、のっけから、「愛の妙薬」の曲が。
 「美少女コンテスト」出場者募集のラジオ放送で流されているのだ。
 「ネモリーノの叔父さんが死んで、遺産が転がり込んでくる、で、今やネモリーノは村一番の金持ち、村の名士」とジャンネッタが村娘たちに言いふらす、あの曲だ。
 さっきの「E Bellissima!」 につながる、直前の場面になる。
 
 そうすると、やっぱり、ネモリーノの「E Bellissima!」 がどうしても思い浮かんで、映画のタイトル、また、「美少女コンテスト」ともかさなってくる。
 
 それだけでなく、随所に「愛の妙薬」の曲が、多くは変奏されてだが、BGMで使われている。
 とくに、ネモリーノのアリア、第一幕のっけのあの「Quant e bella,quant e cara!」。
 これは、ネモリーノが片思いしているアディーナを遠くに見て、「なんて、綺麗でかわいい人だ・・・」とため息混じりに恋い焦がれている歌。
 要するに、大切な人を想う歌。
 
 その曲が、この映画でもここぞというところに使われていて、、、泣けてくる。。。
 歌詞も映画の内容とリンクするところがあったり。
 
 映画は、どんな内容かというと、イタリアの下町の、教養もない、あまり裕福ともいえないウチの母親(マッダレーナ)が、五歳の娘(マリア)を「美少女コンテスト」に優勝させて、女優にしよう、と奮闘するって感じ。
 今で言う、ステージ・ママってやつの卵ママですか。
 で、いろいろあって、最終選考のフィルムテストまで進む。
 フィルムを見るのは関係者だけというのを無理を言って見せてもらうまではいいが、そこで、娘がスタッフの笑いものにされてる。
 自分にとって一番かわいい、一番大切な娘が・・・。
 マッダレーナにとっては、娘のマリアこそが、何があっても、Bellissima なんだよね・・・。
 そのあたりで、この「Quant e bella,quant e cara!」が流れていたような・・・。
 
 いや、ラスト。
 娘が眠っているところ、ここで使われていた。
 
 この「Quant e bella,quant e cara!」、ちょっと日本語にすると・・・(音楽の友社のテノールⅠ 参照しながら)
 
 なんてかわいい、綺麗な人!
 見れば見るほど、好きになる。
 でも、彼女はほんのちょっとでもこっちを向いてさえくれない。
 彼女は、本を読んで勉強し、自分のものにして、知らない事なんて何もないくらいだ。
 それに比べて、僕ときたら、ほんとうに愚か者で、ため息をついているくらいが関の山。
 なんてかわいい、綺麗な人! ・・・
 
 と、「愛の妙薬」のネモリーノの立場での訳。
 
 でも、これ、「僕」を「私」、つまり、映画のマッダレーナにすれば、まさに、マッダレーナの気持ちそのまま。
 娘を女優にするために、演技の勉強だの、バレエだのを習わせたりもしたわけだし。
 
 「こんなにあなたのことを思っていろいろしてるのに、あなたときたら親の気持ちなんかぜんぜんわかってくれない」
 と、ちょっと綺麗な言葉で書いたけど、これって、よ~く親に言われた言葉だなぁw
 「親の心、子不知」ってやつw
 
 それを、イタリア映画らしく、ドニゼッティの「愛の妙薬」を下敷きにして、、、さすがは、ヴィスコンティ!ってねw
 しかも、「愛の妙薬」とおなじく、喜劇。
 
 マッダレーナにとって娘のマリアが Bellissima だったように、ヴィスコンティにとってはこのマッダレーナが、Bellissima なんだろうね。
 
 で、結局、監督が気に入って映画会社の者が契約のために家にやってくる。
 マリアは疲れて、マッダレーナに抱かれて眠っている。
 マッダレーナは契約を断る。もう、これ以上、自分の一番大切な娘を笑いものなんかにしたくないのだ。
 で、マリアをベッドに寝かせるのだが、ここで、「Quant e bella,quant e cara!」がそのまま流れる。
 
 マッダレーナは、マリアのためと思って女優にしようといろいろとしてきたわけだが、果たしてそれはどうだったのか?
 それに、ここでこの曲が流れることからすると、マッダレーナは娘のことを理解したわけではないし、たぶん、これからも理解することなんてできないだろう。
 かたわらからマリアを見つめて、マリアのことを思って、ただ、ため息をついているだけ。
 でも、所詮、親が子を理解するなんて、子が親を理解するなんて、無理な話、とここでここの曲をながすヴィスコンティは、そんな冷めた認識をしているような。
 でも、それでいいんじゃないか? と。
 わからないままに、わかってもらえないままに、なんてかわいいって切ない気持ちで、かたわらで見つめて、何もできないで、ただため息をついている、親だのなんだのえらそうにいっても、結局、それでいいんじゃないか、と。
 そして、それが、なににもまして深い愛情なのじゃないか、と。
 
 そんな映画に思えたわけ。。。
 
 
 それにしても、ヴィスコンティの音楽の使い方、「ヴェニスに死す」でも「ルードヴィヒ」でもおなじ。 
 
 
2011_02
01
(Tue)20:47
 先週、最後の本棚も届いて、そろそろ引越も終わりになってきた。
 9月から、5ヶ月。
 そのせいか、最近、何となく、気分が籠もりがち。
 
 そういうときに、何となく観たくなるのが・・・
 
 ルートヴィヒ
 
 ヴィスコンティの『ルートヴィヒ』。
 タイトルのルートヴィヒとは、19世紀のババリア(ドイツのバイエルン)の王様の
名前だ。
 森鴎外がドイツ留学中に王の訃報に接した、そんな頃。
 プロイセンによる併合や民主化など、当時の時代的な状況から、引きこもりになった
王様の話だ。
 前編で4時間というのもいい。
 セットや小道具など、すべて本物。偽物は、役者が演じている人物くらい?
 今回、プラズマのハイヴィジョンテレビで観たけど、それぞれのものの質感がたっぷ
り堪能できた。
 
 ワーグナーの音楽も随所に流れる。
 というか、ワーグナーも登場する。
 この映画で観るかぎり、ワーグナーは音楽家というより、浪費家の詐欺師にしか見え
ない。
 そういうわけでこの映画を観るとワーグナーに対してあまりいい印象を持たないけど、
流れている音楽は悪くない。
 
 オーストリア后妃役のロミー・シュナイダーがキラキラ輝いている。
 当時のヨーロッパの王族というのは、みんな陰気くさかったのだろうか?
 とりあえず、一族陰気くさいなかで、ただ独り、快活、活発、燦然。
 
 映画では、ルーはこのオーストリア后妃(いとこ)に恋をするが、振られてしまう。
 それで、后妃の妹のロシア公女のゾフィーと婚約するが、結局破棄。
 そのあいだに、ワーグナーとのあれこれや、戦争やプロイセンによる併合やなんや
かんや、あって、引きこもりになってしまう。
 引きこもって、次々に城を建てる。
 それらの城は、みな、オリジナリティーに欠けるコピーのような物ばかり。
 しかも、政府に非常な財政の負担を強いる。
 しかも、言っていることもなにかヘン、などということで、政府によって廃位されてし
まう。
 
 当時は政府に莫大な財政負担を強いた、ワーグナーへの援助や城が、今では、ワ
ーグナーは言うに及ばず、城も観光資源になっているんだから、世の中、何がさいわい
するかわからない。
 
 と、いうわけで、なんとなく、観るともなく、観て、籠もり気分を満喫。
 
 ヴィスコンティの映画は他にも、『山猫』や『ベニスに死す』や『地獄に墜ちた勇者ど
も』もお気に入りだが、籠もり気分の時は、やっぱり、ルーがいい。
 
 『地獄に墜ちた勇者ども』は、台頭するナチスドイツの頃て、ドイツの鉄鋼王の一族が、
ナチスに乗っ取られていく話。というか、一族の人間を懐柔し、ナチス化してしまうとこ
ろが、エグイ。親衛隊と突撃隊の抗争などもあり、血なまぐさくて、とても籠もれない。
 
 『ベニスに死す』は、美しすぎる。
 しかも、明るすぎる。
 手に入れることは叶わないが、そのもっとも愛する美しいものを見ながら迎える死、っ
て、こんな幸せなこともないだろう。
 が、別の視点から見れば、ノー天気過ぎる。
 そこが籠もれない。
 
 『山猫』は、公爵だけなら籠もれるかも知れないが、若いタンクレディも出てきて、彼
が活きがよすぎる。
 それに、ラスト近く、舞踏会で気分が悪くなった公爵が控えの間で絵を観るシーン。
 「年寄りが死ぬとは、みんなこんなふうに醜いものだ」みたいな台詞。
 もちろん、公爵はすでに先が長くない自分の死をその絵に重ねあわせているわけだが・・・
 たいていの人間は歳をとって死ぬので、うがった見方をすれば、人の死とはこんな
ふうに醜いものだ、ということになる。
 そこが、重すぎて、暗すぎて、籠もれない。
 公爵は、台頭するブルジョワとうまく調和を図って、なんとか生き残る側にたった、つ
まり、時代に適応して生き残った側の貴族だ。
 そんな公爵が自身の死を思って吐くこの台詞は、なんとも、やりきれない。


 
 というような話を奧さんとしていて、奧さんは何か、と聞いたら、その答えにちょっと
びっくりしてしまった・・・
 これなんだそうだ・・・
 
 アリス
 
 シュヴァンクマイエルの 『アリス』。
 『不思議の国のアリス』といえばそうなんだけど、そこは、シュヴァンクマイエル。
 結構、グロくて、滑稽。
 子供部屋の世界。だけど、骨の標本や変な缶詰や壊れた人形や穴の開いた靴下の
芋虫や・・・好きは好きだけど、うーん、とても落ち着いて籠もれそうにない。。。
 というと、逆に、ルートヴィヒで籠もれるわけないやん、疲れる、って、言われ
てしまった。。。
 というのも、『アリス』はほんとに誰にも邪魔されることのない夢の世界。
 それに対してルーは、時代状況やなんやかんやで籠もりたいけど実際籠もりきれ
ない、そんなの疲れる、というのだ。
 だが、逆に、そこがいい、とだんなん。時代や状況など他から強いられた結果で
あっても、結局、城建てて籠もってるんだから・・・と。
 
 シュヴァンクマイエル、といえば、だんなんの一番のお気に入りは、
  
 ジャバ
  
 『ジャバウォッキー』。
 これも、子供の心象世界。
 子供にとって、世界は神秘に未知いてたし、ナイフも兵隊も、それぞれに命があり、そ
れぞれが動き回る。
 そう、たとえ自分が操っているんであっても、それぞれが勝手に動き回っている、生き
ていると子供は思っている。
 そんな懐かしい世界を描いた短編だ。
 ただ、時間が短すぎる。
 籠もり気分を解消するためには、だらだらとした時間が必要なので。
 
 『アリス』は、籠もるには毒もありすぎ。