2017_01
29
(Sun)22:58

 1/23に、新聞で見つけて。

ちょうど、NFLとも重なったので、「まあ、いまさら、蝶々夫人だし・・・」と思いつつも、テレビはNFL録画、ivdrデッキは「蝶々夫人」録画・・・と。

これは、録画しておいてよかった。

 

 蝶々夫人  ミラノ・スカラ座 2016~17シーズン  2016/12/07

 

   ジュゼッペ・ジャコーザ、ルイージ・イッリカ:作詞
   ジャコモ・プッチーニ:作曲

 
   蝶々夫人…(ソプラノ)マリア・ホセ・シーリ

   ピンカートン…(テノール)ブライアン・イーメル  

   スズキ…(メゾ・ソプラノ)アンナリーザ・ストロッパ 

   シャープレス…(バリトン)カルロス・アルバレス 

   ケート・ピンカートン…(メゾ・ソプラノ)ニコレ・ブランドリーノ

   ゴロー…(テノール)カルロ・ボージ 

   ヤマドリ…(テノール)コスタンティーノ・フィヌッチ 

   僧侶…(バス)アブラモ・ロザレン 

 

   ヤクシデ…(バス)レオナルド・ガレアッツィ 

   神官…(バス)ガブリエーレ・サゴーナ 

   戸籍係…(バス)ロマーノ・ダル・ゾーヴォ 

 

   蝶々夫人の母…(メゾ・ソプラノ)マルツィア・カステッリーニ 

   蝶々夫人のいとこ…(ソプラノ)ロベルタ・サルヴァーティ 

   蝶々夫人のおば…(ソプラノ)マリア・ミッコリ 

   蝶々夫人のいとこの子…(ボーイ・ソプラノ)アルベルト・ガッリ 

 

  (合唱)ミラノ・スカラ座合唱団 

  (管弦楽)ミラノ・スカラ座管弦楽団、

  (指揮)リッカルド・シャイー
                  (1時間1分13秒)

             (以上、配役など、NHKONLIN マイ番組 から拝借)

 

25日に一回みて、今日、また見た。

 

とりあえず、見た目は、まあ・・・「ジャポニズム?」なのかどうか知らないが、日本人役はみな、白塗りで、着物もなんか奇妙。仕草も、なんだか・・・。

たぶん、歌舞伎、浮世絵、日本画、能、日本舞踊、などから作られた「日本人」というイメージの、メイク、衣装、仕草。

スズキなど、歩き方は、能の「すり足」のような(といって、能では、あんな早足であるかないが)。。。また、泣くときは「しおり」という能の仕草。

蝶々さんも、捨てられたと知って髪を振り乱すシーンがあるが、あれは、なんとなく、「道成寺」の清姫のような髪。

群舞は、日本舞踊のような・・・くねくね。。。

バックは、日本画、浮世絵からいろいろ。

と、まあ、ぱっとみは・・・ひいちゃいそう、というか、ひく。

「あ、また、この手の・・・」

と、いうのも、カラヤン指揮、フレーニ、ドミンゴのこの手のメイクのDVDを持ってて、それが彷彿と。

「うーん・・・」

でも、そんなメイクや衣装などどうでもいいくらい、オケと歌唱が、美しく、素晴らしかった。

 

最初数小節で、もう、引き込まれてしまって・・・。

最近、こんなのめり込むほど真剣に聴いたり見たりしたものなんて、ないくらい・・・。

気がついてみると、もう、第一幕が終わっていた。

やっぱり、イタリアオペラは、イタリアの指揮者に限る、とういう自論をさらに確信(笑

 

それはそうと、今回の公演、もしかすると、ちっょとか、かなりか、貴重。で、希少、かも。

なんせ、初演版。

今さら言うまでもないし、放送でも最初の方に説明が出てきたが、「蝶々夫人」、じつは、初演は大失敗。あまりの不評に、1日で打ち切り。で、何度も改訂を重ねて、いまの「蝶々夫人」になったというわけだけど、はたして、どこがどう違うのか、なんていうのも楽しみにしながら、観ていた。

 

第一印象は、なんか、音楽というか、曲想の流れが自然な感じがした。なんとなく改訂版の方は、ぷち、ぷち、と細切れになったのをつなぎ合わせてるみたいな感じがしないでもなかったのが、とても自然な感じで、よかった。

 

特に、婚礼の場とでも言うべき第一幕は、かなりちがっていた。

まず、登場人物が、初演版は多い。上の配役で、小豆色字 にした役は、改訂版では出てこない。ただし、蝶々さんのお母さんだのは、セリフ無しで出てきていたような。

これらごちゃごちゃした役を省略した分、蝶々さんとピンカートンのデュエットの後に、オケだけの間奏のようなものが入っていた、ような。。。

このごちゃごちゃしたいろいろな人が出てくることで、改訂版とは、かなり違った印象。

というか、僕的には、このシーンにほかの作品の響きを聞きとったのだが。

たとえば、「ボエーム」のカルチェ・ラタンのシーンとか、「トゥーランドット」のラストあたりとか。あるいは、ドニゼッティの「愛の妙薬」のアディーナとベルコーレの結婚式のシーン、ヴェルディの「リゴレット」の饗宴のシーン、「トラヴィアータ」のパーティーのシーン・・・。

 

とくに、「トゥーランドット」につながる、というのは、ちょっと、発見、というか。いわゆる「ヴェリズモ」(風)からはじまって、「グランド・オペラ」を目指した「トゥーランドット」にいきつくまえに、かなりそれっぽいシーンが「蝶々夫人」にあるなんて。

 

「愛の妙薬」の婚礼シーンを連想するのは、神官・戸籍係がでてくるというばかりでなく、のんべいの叔父がへんてこな歌をうたう、それが、ドットーレの「舟歌」を思わせたり。

 

「リゴレット」には、「蝶々」の伯父の僧侶が、モンテローネにかさなったり。この僧侶の伯父は、まったく、モンテローネそっくりの登場をする。

しかも、ピンカートンというのは、まるで、公爵だし。

蝶々さんは、あるいみ、ジルダ。

ただ、肝心の「リゴレット」がいない、「リゴレット」なわけだけど。しかも、絶対王権なんてものはもう存在しない時代の「リゴレット」。

なんとなく、「リゴレット」と「蝶々夫人」は、写真のポジとネガのような、そんな関係にあるんじゃないかと、そんなことを思ったり。

 

蝶々さん役のマリア・ホセ・シーリってソプラノさんは、ウルグアイ出身だとか。まあ、そんなことよりも、声。声質。ちょっと、フレーニを彷彿とさせる。フレーニほど、力強くはないが、イタリアオペラの、ことに、プッチーのにヒロインには、うってつけの声。やわらかく、ふくらみがあり、高音も金切り声にならず、余裕もあり・・・。

ワーグナーなら金切り声のソプラノも迫力があっていいかもだけど、プッチーニのヒロインには、そういう声はあまり向いてないと思うので、そういう意味で、僕的には、まったく、ドンピシャ。

ググってみたら、アイーダやトスカを数多くやっているとか。ああ、なるほど、って感じ。

で、なかなかいいので、DVDやCDないのかと探してみたけど、どうやらないらしくて、がっかり。。。

あと、なんというか・・・。最初から最後まで、歌唱に隙がない、とでもいうか。彼女だけではないが、とても、詰まった感じの歌唱だった。どんな些細な音も、粗末にしていない、おろそかにしていない感じ。

15歳、18歳の少女(18は少女かな?)の、子どもっぽくて、無邪気な一途さが顔を出すかと思うと、ませているというか、大人びてはいるが、その「大人びた感じがじつは、やっぱり子どもの一途さだったり、というところが、演技にも、もちろん、歌唱にもよく現れていて、そんな蝶々さんの姿を見ていると、おもわず、切なくなってくる。

フレーニは、上記のDVDで「ある晴れた日」を、未来のことを過去を回想するような夢想として唱い、そしてその夢想にひたる蝶々さんを演じていたが、今回の蝶々さんも、夢想に浸っているというところは、そっくり。いや、夢想ではなくて、信じ込んでいるわけだけど。でも、過去を回想するようではなく、いま目の前にそのシーンが展開しているように、シーリは唱っていた。

切なく、哀れな、18歳の蝶々さん。

涙が出てくる。。。

 

こんな、子どもっぽいが一途に恋している蝶々さんを、すてる、ろくでもない男、ピンカートン。

ほんま、イタリアオペラには、いろいろ、なさけな~い男が登場するけど、こいつほど、ろくでもないヤツはほかにいないんじゃないか、とおもうくらい。

ラスト近く、シャープレスや妻と蝶々さん宅を訪れるが、そのとき、なんでシャープレスはこいつのどたまを殴らないのか、不思議なくらい。というか、ぼくがシャープレスだったら、絶対、ここで、少なくとも一発、こいつ、なぐるよなぁ、と(もちろん、殴ったところでなにも解決しないが・・・)。

とはいえ、このピンカートン役のテノールさんも、なかなかよかった。もっと、高音に金属的な張りがあったら、ちょっと、パバァロッティみたいな。

1幕目の蝶々さんとのデュエットは、すごくよかった。「ボエーム」のミミとロドルフォのデュエットを、あるいは、トスカとカヴァラドッシのデュエットを、長大にしたような感じで。これも、初演版だからだろうか。上記、カラヤンのでは、あまり、このデュエットは印象的ではなく、かつ、時間的にも短い気がしたが。(ドミンゴはそつなく唱うのでそう聞こえた?)

 

シャープレスをはじめ、その他の役も、声の質、歌唱など、ぴったり。

 

オケも。

弦楽器の、哀切な響き。

イタリアオペラの響き^^

それに、なんか、とても自然に感じる。

他国の指揮者が指揮をすると、なんか、ちがう、って。「訛り」があるのか。

ドイツの指揮者が指揮するとドイツ訛り、イギリス人だとイギリス訛り、アメリカ人だとヤンキー訛り・・・。

何でだろう、と勝手に想像するに、たとえば「いきいきと」という発想記号の指示があったとして、その「いきいき」というイメージのが、国によってちがうからか、なんて(とくに、プッチーニは発想記号が多いとか)。

その「いきいき」のイメージと、楽譜に表されてる音とが、他国の指揮者だと一致しなくて、なんか、訛ってしまう・・・。

それに、オペラは言葉だから。

プッチーニなんて、セリフそのものからインスピレーションを得て曲にしていた、とかで、作詞家に「ここ、これじゃ曲にならない。もっと、ロマンチックで、インスピレーションが湧く言葉にしてくれ」とか、注文してたみたいだし。

そういうことからしても、イタリア語が母国語の指揮者かどうか、ということは、おおきく影響するのだろう。

ま、とにかく、イタリアオペラにはイタリア人の指揮者が、いちばん、しっくり、ほっこり、ほっとする。

 

指揮のシャイーさん。

「リゴレット」、よく聴く。公爵が、パヴァロッティ。リゴレット、ヌッチ。

DVDももっていて(配役が、CDとDVDではちょっとちがっている)、どっちもなかなかだと思っていたけど、この、シャイーさんだったとは。

たしかに、隙がなく、どの音もおろそかにせず、密な感じとか、似ているような。

けど、ヴェルディとプッチでは、こうもちがうのか、と。

指揮者によっては、誰の曲を指揮しようが、その指揮者の指揮者節になってしまうような人もいて、良し悪しだけど、そういうタイプではないのだろう。

プッチーニの「蝶々夫人」を堪能できるし、ヴェルディの「リゴレット」を味わえる。

 

2011年くらいから、プレミアムシアターのオペラ、まあまあ、わりと観てるけど、今回の「蝶々夫人」がいちばんよかった。

あと、最近のオペラ、演出とかひとひねり、っていうのが結構あるようだけど、今回のはそうではなく、直球勝負、ドン真ん中。

一ひねりもいいけど、そういうの、たいてい、セリフと設定や演出との間に齟齬があって、そのへん、なんとかできないのかね、っていつも思ったり。

それに、設定、演出一ひねり、っていうのは、まあ、ぼくにしたら、小手先のこととしか思えないから。

 

今回の、メイク、衣装も、これはこれでいいんじゃないか、と。

日本人からすると、かなり、奇異といえば奇異。

というか、歌舞伎自体、奇異でしょう?

もともと、「かぶく」ってそういう意味もあるんだから。

なので、そのもともと奇異な歌舞伎を下敷きに「ジャポニズム」なるものの西洋的想像力によってさらに味付けした、ということで(笑

逆に、時代考証をしっかりして、そんなメイクや衣装にしたら・・・と、そんな「蝶々夫人」を想像すると、なんか、つまらなくなる。

それに、結構、「あたらずといえども」っていう線をいっているのかとも思ったり。

たとえば「お母さん」だけど、ここに登場するのは、実のお母さん?

舞子さんとかが置屋の女将さんのことを「お母さん」って言うのと同じ意味の、「お母さん」でしょう、とも。

いや、プッチやイリッカは、当時のイタリアの聴衆よりは「日本」についてよく知ってたいたかも知れないが、それでもいろいろ誤解していたり、知らないことを曖昧なまま「セリフ」にしていたり・・・。

 

でも、まあ、とにかく、とても素晴らしく、美しく、感動的で、イタリアオペラらしく涙とも無縁ではいられない、オペラだった。

 


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2015_09
25
(Fri)22:25
 9/20の深夜、つまり21日の午前0時過ぎに、たまたまテレビをつけたら、いきなり「トゥーランドット」と目に入ったので、急いで録画。
 NHKのBS、プレミアムシアター、最近オペラあんまりやってないようだったので(やってたのかな?)、チェックしてなかった。
 
 それにしても、いきなり、何だこのセットは? って感じで。
 後でわかったが、なんでも、オーストリアのボーデン湖の湖上ステージなのだそうだ。
 オペラ歌手がオペラでマイクつけて歌っている、っていうのもはじめて見たが(笑
 
 とりあえず、第1幕、第2幕を見た。
 で、昨日、残りの第3幕を。
 
 湖上ステージということで、舞台装置や演出でいろいろ工夫もあったり、面白いものもあったが、とりあえず、これは「トゥーランドット」のスケールをあますところなく出せていて、よかったかな、と。
 
 でも、それよりも、特にいいなとおもったのは、曲全体のバランス。
 いままで聴いたことのある「トゥーランドット」は、なんか、アンバランスな感じがするのが多かった。
 とくに、リューのレクイエム(でいいのかな? リューが自ら命を絶って、その後につづくリューのアリア「氷のような姫君も」の旋律でむにゅむにゅ・・・のところ)まで、と、そのあとが、なんか不自然な感じで。
 実際、プッチーニが作曲したのはここまでで、そのあとはプッチーニの残したスケッチをもとにプッチーニの死後補われたもので、そのせいもあってか、なんか、しっくりこない感じのが多かった。
 それが、なんか、こんかいのは、結構しっくり。
 カラフとトゥーランドットのやりとりも、まあ、トゥーランドットが自ら服を脱いで下着のようなドレス姿になる、というのは、おなじ脱ぐにしてももうちょっとやりようがあるだろう、みたいに思ったことは思ったが、全体としては、そこそこ説得力もあり、悪くなかった。
 
 リューも、初めのアリアでは、ビブラートかかりまくりで、ちょっとドラマティックすぎないか、と思ったが、自刃のアリアはまあまあ。
 
 「トゥーランドット」って、トゥーランドットがタイトル・ロールなのに、なんかいまちいぱっとしない。
 まともに歌い始めるのも、第2幕から。
 第一幕は、ちらっと、姿を見せる程度。
 プッチーニのヒロインの系譜からすれば、当然、リューが主ヒロイン。
 「マダマ・バタフライ」の蝶々夫人よりも、さらに、深化して、より、プッチーニの理想に近づいているのだろう。
 マノン・レスコーは、自由奔放に生きて死んだ、まだ、どこか混沌としたところがある少女(犯罪に荷担してアメリカの荒野に流刑になり、そこでのたれ死ぬ)。曲の方も、なんか、「アリア」としてくっきりヒロインが叙情する場面もない。
 ミミ(「ボエーム」)は、これは、よくある、というか、悲劇のヒロインの定番というか、病気で亡くなる少女。でも、ロドルフォと出会ったときのアリアは、とてもいい。息をひきとるとき、出会ったとき、ロドルフォが歌ったアリアの旋律でミミがぼちぼちと、まるで出会った時を回想するようにうたう場面があるが、ここは、じーんとくる。
 トスカ、は、恋人であるカヴァラドッシが処刑されたことを知り、また、追い詰められ、突発的に、投身自殺する。
 そして、蝶々夫人は、待ちに待ったピンカートンが戻ってきたことはいいが、じつは妻帯者だったと知らされて、自ら命を絶つ。ただし、それは失恋とか裏切られたから、とかいうんじゃなくて、武士道の教えに従った、という感じになっている。父の形見である短刀に、「誇りを持って生きるあたわざる者、云々・・・」と、ちょっと忘れたが、ようするに、武家の娘として誇りを持って生きられないなら自害しなさい、という教えに従って死ぬ、という感じになっている。
 
 リューは、はっきりと、カラフへの愛のために死ぬ、と自分で宣言する。
 強制されたり、偶然だったり、自分からといっても突発的だった死が、蝶々夫人では意志的なものになり、リューでは、さらに、愛のためと意志的、自覚的、自己犠牲的になっている、という意味で、深まっている。
 
 しかも、曲的には、上記の4人は、彼女らが死んだところで、ほぼオペラも終わるが、「トゥーランドット」では、リューのレクイエムのような部分があとにつづく。
 
 このリューの自刃とレクイエムのような部分を聴く度に、プッチーニの死が、偶然とは思えなかったり。
 この「トゥーランドット」で、プッチーニは今まで追求してきた理想のヒロインを完成して、その一方で、彼にとって新しいタイプの、もう一つのヒロイン像を描こうとしていた、と、そんな気がしてくるのだ。
 だから、自刃したリューについて、レクイエムのような部分がつづく。
 死んだヒロインや英雄にたいして、こういう部分がつづく曲って、イタリアオペラではあんまりぴんとこない。
 (ワーグナーではどう? イタリアオペラほど観ないので、しかも長いので(笑) こういう部分があるのか無いのか、、、。けど、あんまり心当たりがないような・・・)
 つまり、そんな風にして、プッチーニは、今まで追求してきたヒロイン像に別れをつげようとしたのではないか、と。
 
 そして、そこで、亡くなってしまった。
 別れを告げたとたん・・・
 というか、ここまでガンだったのを耐えて作曲してきたが、ここで、ついに力尽きて・・・
 なんとも、偶然とは、思えない。
 逆に、たとえ偶然だったとしても、リューの自刃とその後の部分までを完成させている、というのが、とても意味深に思えてしまう。
 
 そして、新しいヒロイン像としての、「トゥーランドット」。
 「氷のこころをもつ女」。
 まったく、今までのヒロインとは真逆。
 その真逆のヒロインが、愛に目覚める、氷のこころがカラフの情熱によって溶かされ愛に目覚める、というのが、「トゥーランドット」のストーリーといえばストーリーなわけだが・・・。
 なんか、もうひとつ、印象にのこらないヒロイン、トゥーランドット。
 タイトルなのに!
 唯一、「ああ、この曲ってやっぱり『トゥーランドット』で、いいんだ」って思えたのは、カラスのトゥーランドット。
 やっぱり、カラスはすごいな・・・。
 
 今回のは、リュー、カラフ、トゥーランドット、特に誰が突出しているわけでもなかった、という意味でも、バランスがとれていた。
 
 指揮が、パオロ・カリニャーニと名前からしてイタリア人っぽいけど、ググってみたらミラノ生まれ。
 やっぱり、イタリアオペラはイタリア人の指揮者に限る、ってか。
 なんか、ビミョーなところが、外国人の指揮者だと、しっくりこない気がする。
 
 あと、ピン・ポン・パン。
 このピン・ポン・パンって言う三大臣、ヴェルディやプッチーニのオペラの中では、ちょっと特異な登場人物かと。
 三枚目、というか、コミカルな曲を歌う、しかも、三重唱。
 (コミカルな三重唱というと、『カルメン』のジプシーとカルメンの三重唱をなんとなく連想するけど)
 イタリアオペラにまだ喜劇というジャンルがあった頃には、コミカルな曲とか珍しくないけど、ヴェルディ以降で、こういったコミカルな登場人物、ってちょっとこれもあんまりないような(「マダマ・バタフライ」のゴローがちょっとコミカルというか、三枚目のニュアンスも)。
 三部作の「ジャンニ・スキッキ」を経てこその、この、ピン・ポン・パンかな、と。
 で、この三大臣が第二幕の冒頭に歌う三重唱の後半、できればもうすこし、ゆったりとしてたらよかった。
 故郷を想って歌うところ、「江南」の情景を、そのゆったりとした長江の流れを彷彿とさせるように・・・。
 (「フーナン」となっているが、たぶん、「江南」のことじゃないかと。曲の旋律がいかにも、ゆったりと、長江の流れを思わせるので)
 
 そのほか、字幕もなかなかよかったのでは。
 
 ただ、衣装が、なんかしっくり来ないところもあったが。
 
 いま、聴きながら、観ながら、ちょっとwikで「トゥーランドット」みてるけど、なるほどピン・ポン・パンはそういうことだったんだ、と。
 また、今回のオペラ、最初に、カラフがオルゴールを鳴らす場面があるが、それは、引用曲が「ファッシーニ男爵所有のオルゴールから得たといわれる」と、そんなことも意識しての演出だったかな、と。
 
2015_04
15
(Wed)01:47
 ひさびさ、オペラ。
 先日、4/13の深夜に、NHKBSで録画した、「トロヴァトーレ」(ヴェルディ)を見た。
 「トロヴァトーレ」とは吟遊詩人のこと。
 あんまり、見る気はなかった。
 見る気がなかったのは、このオペラは、むちゃくちゃ、暗い、血塗られて、おどろおどろしい、というのがまずひとつ。
 はじめて、パヴァがマンリーコ(吟遊詩人)をやってるDVDみたときは、ぞっとした。
 とくに、アズチューナ。
 CDもあるけど、よっぽどその気にならないと、聴かない。
 ラストも、主な登場人物が、総不幸状態。
 誰も救われず、皆、不幸のどん底で、幕切れ。。。
 ヴェルディのなかでも、いいや、オペラの中でも、1、2を争うくらいおどろおどろしいんじゃないか、と。
 
 もうひとつ、あんまり聴く気にならなかったのは、レオノーラをやってる、ソプラノのネトレプコ。
 以前、「椿姫」を見て、なんだかなぁ~、期待はずれ。
 ちょっと容姿が綺麗で、ついでに歌も歌える、くらいの歌手にしか思えなかった。
 
 ついでに、もうひとつ、あんまり期待できないのが、ザルツブルグ。
 がちがち、ドイツ系。
 ドイツ系音楽の劇場がイタリアオペラやると・・・目も当てられない場合が多々あったり・・・。
 客の方もドイツ系の発声になじんでたりというせいがあるのかないのかしらないけど、イタリアオペラなのに、ドイツ系の発声の歌手を連れてきて、支離滅裂な曲になってしまったり・・・
 
 ただ、この「トロヴァトーレ」の前に、「アンナ・ザ・グレート」という、ネトレプコのドキュメンタリーをやっていて、それを先に見た。
 そこで、ドミンゴが曰く、「アンナはカラスに似ている」とかなんとか。
 それは言い過ぎでしょう、と、「椿姫」で期待はずれだった僕は、半信半疑。
 
 ただ、ドミンゴが出てる、というのにはちょっと興味があった。
 御年70代のドミンゴが、歌えるのか?
 しかも、役が、ルーナ伯爵。
 そのうえ、バリトン。
 ドミンゴは、テノール。
 
 「トロヴァトーレ」は、ほぼ、四人が主役と言っていい。
 マンリーコ テノール
 レオノーラ ソプラノ
 ルーナ伯爵 バリトン
 アズチューナ メゾソプラノ。
 全員が、よくないと。
 
 ネトレプコの第一声を聴いて、息が詰まる思いがした。
 最後まで聴き通せるのか、と感じた。
 途中で、息が詰まって、耐えられなくなるんじゃないか、って。
 そのくらい、素晴らしかった。
 そんなシーンでも何でもないのに、こちらの感情がせり上がってくる、とでもいうか。
 それで、息が詰まりそうになったのだ。
 
 「カラスに似ている」というのも頷けた。
 まず、声の質。
 カラスは、胸声、中声、頭声、ぜんぶくぐもってたいるようなところがあった。
 低い声になると、そんなカラスの声に似ている。
 でも、どの声もカラスよりのびのびとしていて、しかも、すこしくぐもったところもある。
 だから、同時に相反する感情をも、表現できる。
 ヴェルディの登場人物は、ことに主役級は、いたばさみ、ジレンマ、アンビヴァレンツな感情に支配されている人がほとんどなので、こういった感情表現ができないと。
 たとえば、愛の陶酔の中にある死の予感・予兆へのおそれ、とか。
 ネトレプコの声は、そういう感情表現が可能になったよう。
 
 もうひとつ、似ていると感じたのは、歌唱に対するアプローチとでも言うか、態度とでも言うか。
 ただ、技法上のなにか、テクニック上のなにかに留まらず、そういうアプローチとか哲学とか、そういう所が似ている結果、歌唱上もにたかんじになるのかな、と。
 
 ネトレプコが歌い出すと、容姿や、衣装や、セットや、なんやかんや、もう、どうでもよくなる。
 そういったものは存在しなくなる。
 歌唱以外、すべては消し飛んでしまう。 
 そして、ただ歌唱だけが、ドラマを織りあげていく。
 すばらしい歌唱、歌手とはそういったものだと、オペラを聴いている人ならそういう経験があると思うけど、今回のネトレプコはまさにそれだった。
 「椿姫」では、恵まれた容姿+そこそこの歌唱、だったのが、あきらかに、逆転した。
 素晴らしい歌唱、+ 歌うことによって輝きがます容姿。
 歌っている顔が、よりうつくしい、かがやいている、というオペラ歌手も、あんまり見たことがないので、これにも驚き。
 
 第一声を聴いたとき、これから展開する様々な場面が、とても楽しみになった。
 あんまり聴かないとはいっても、それなりに、印象的なシーンや重唱は、パヴァで何度も何度もしつこいほど聴いているので自然に思い浮かんできて、聴く前から想像して楽しみだった。
 そして、どのシーンや重唱も、期待を裏切るものではなかった。
 
 ドミンゴのルーナ伯爵もよかった。
 本質は知的な、理性的な男であるのだが、レオノーラのために、その嫉妬のために、理性も知性も失った自分自身に翻弄されている、猛り狂っている、そんな伯爵だった。
 ただ、マンリーコと最初に重唱するところでは、テノール同士ちょっと声が被ったのが、玉に瑕、って感じだったけど、そのうちそういうこともなくなった。
 それにしても、ドミンゴは、よっぽど、ネトレプコに惚れてるのかねぇ(笑
 
 指揮も、とてもよかった。
 ガッティって、僕ははじめて聞く名前だったけど、やっぱり、イタリアオペラはイタリアの指揮者に限る!^^
 (なんせパヴァロッティで僕のオペラの時間は止まっている感じなので・・・指揮者も、そのあたりの人で止まっている・・・)
 なんていうのか、オケによるその場面のふさわしい感情表現、とでもいうか・・・
 イタリア語なんてできないので当然字幕を読みながら見てるわけだけど、こういうオケだと字幕がいらなくなる・・・というか、字幕読んでなくてもちょくせつ、ビンビン伝わってくる。
 前奏から、もう、ツボを押さえている、ツボにはまっている、というか・・・
 そして、例によって、アンビヴァレンツの感情の表現、これもばっちり。
 
 今まで、見た、聴いたオペラの中で、1,2を争うほどよかった。
 すくなくとも、一度は、見てみるべき、見ておくべき、と言いたくなる。
 ここでこういうと、どちらかというとこういう悲劇にたいして評価が高い日本で、こういうのもなんだけど、今回の「トロヴァトーレ」と1,2を争っているのがなにかというと、レヴァイン指揮、メト、パヴァロッティ、バトル、ダーラ、ポンスの「愛の妙薬」(ドニゼッティ)。
 
 もちろん、ほかにもいろいろいい公演はあるけど、でも、是非一度は、見てみるべき、見ておくべき、というふうに人に勧めるとしたら、今のところ、この二曲。
 
 追記
 衣装やセットや演出について、ぜんぜん触れてないけど、まあ、ネトレプコの歌唱にくらべれば、どっちでもいいかな、っていう感じなので。
 面白い、というか、ある美術館でのはなし、みたいな演出とセットで、まあ、ところどころ歌詞と齟齬があったりしたけど、手もつけられないほどひどいというものではなかったし、そんなちょっとばかり変わった演出であったわりには、ちゃんと、直球勝負のイタリアオペに仕上がっていた点は、とてもよかった。
 
 とにかく、ネトレプコとドミンゴに尽きる^^
 
 それで、思ったのは、「ドン・カルロ」を、是非見てみたい、なんて(笑
 ネトレプコのエリザベッタ、ドミンゴがフェリペ二世。
 フェリペ二世は、バスだから、ちょっと、難しいか・・・。
 
 ドミンゴ=カルロ、フレーニ=エリザベッタでは、最終シーン、フレーニが圧巻だった。
 あのフレーニ以上のエリザベッタが、ネトレプコなら演じられるかも、って、期待して。 (4/16 追記)
 
2014_02
27
(Thu)22:04
 22日から23日にかけての夜中、BSプレミアムでプッチーニの三部作をやっていたので録画して、観てみた。
 ミラノ・スカラ座の2008年のもの。
 スカラ座なので、そう悪くないだろう、と期待大。
 また、三部作、ってなかなかやらない気もする。
 だんなんも、初めて観る。
 
 「外套」
 なんか、プッチーニらしくない音楽。
 知る限り、プッチーニって緻密で隙がない感じがするが、これは、なんか多孔質。
 でもそこが良かった。
 内容は暗い。
 伝馬船の船長が、妻の愛人である船員を殺してしまう、という話。
 レオンカヴァッロの「道化師」を連想。
 「道化師」、あんまし、好きじゃないし、一回観たっきり。
 それほど、暗く、陰湿、陰鬱。
 これは、プッチーニの心の闇って感じ。
 船長役が、ファン・ポンス。
 だんなんた大好きな「愛の妙薬」 パヴァロッティ、バトル、レヴァイン指揮・メト版のDVDで、ベル・コーレをやっていた。
 しかし、暗い。
 
 「修道女アンジェリカ」
 これも、なにやらプッチーニらしからぬ音楽。
 しかも、出てくるのが、修道院が舞台だから当然と言えば当然だが、女性歌手ばかり。
 内容は、なにかの罰で修道院入れられているアンジェリカ。その彼女のところに、叔母が、二〇年前になくなっているアンジェリカの両親の遺産相続のことを伝えに来る。アンジェリカの妹が結婚するので、遺産を分割することになったというのだ。
 実はアンジェリカには息子がいて、そこで、その子が二年前に死んだことを知らされる。
 すべての希望を失ったアンジェリカは、天国にいる息子にあうために、毒草で自殺を決意。
 毒液をのんだ後で、しかし、自殺は大罪だと気づき、後悔し、嘆くが、時すでに遅し。
 だが、死ぬときに聖母マリアが現れて息子を彼女の腕の中に。
 
 これも、暗い。
 ただ、アンジェリカが自殺するところは、それまではプッチーニらしくなかった音楽が、プッチーニに戻った感じ。
 プッチーニを回復した感じ。
 自殺のところは、ある意味、まるで、「マダマ・バタフライ」で蝶々さんが自害するところみたいだった。
 
 なかにアンジェリカのアリアがあり、そのアリアは、フレーニのアリア集で以前から聴いていた。
 ただ、その曲が、プッチーニとは思ってもいなかった(ジャケット見ればちゃんと書いてあるのに、見てなかった。見ても、憶えてなかった)。
 つまり、らしくないアリアだった。
 ベルディ? でも、ちょっとなんか違うな、っていうのがそのアリアに対する印象。
  
 「ジャンニ・スキッキ」
 これは、「私のお父さん」のアリア、以前、初音ミクで歌わせたことがあるw
 すごい、プッチーニらしいアリア。
 ジャンニ・スキッキを、レオ・ヌッチがやっていた。
 そのせいか、どうしても、裏リゴレットというか、アンチ・リゴレットというか、そんな印象をぬぐえなかったw
 内容は、ある大金持ちが死に、そこに集まっていた遺族達が、遺産が全部教会に寄付されることを知る。
 そこでなんとかしようと、遺族の一人がその娘とつきあっているという縁で、嫌われ者のジャンに・スキッキに協力を頼み、スキッキの悪知恵? というか、知恵で、遺産を全部自分たちのものにする、という話。
 これは、喜劇。
 音楽で笑わせてくれる。
 滑稽な旋律とかいうんじゃなくて、オケと歌手のハーもーニーの滑稽さ、とでも言うか。
 
 それにしてもこの三部作。
 作曲されたのは、「マダマ・バタフライ」と「トゥーランドット」のあいだ。
 多少例外はあるけど、プッチーニと言えば、だいだい、タイトルが、ヒロインの名前。
 かつ、ヒロインの物語。
 なのに、この三部作、「外套」とか「ジャンニ・スキッキ」とか。
 「西部の娘」とか「つばくろ」は聴いたことないので、ちょっと除けといて、の話しだけど、普通のプッチーニのイメージからすると、かなり異質で異様。
 
 だんなん的に言うと、プッチーニのオペラは、悲劇のヒロインもの。
 「マノン・レスコー」 マノン・レスコー。犯罪犯して、アメリカに流刑。砂漠でのたれ死ぬ。
 「ラ・ボーム」 ミミ。肺病で死ぬ。
 「トスカ」 トスカ。警察長官に横恋慕され、その警察長官を殺害。恋人を銃殺され、追い詰められて、飛び降り自殺。
 「マダマ・バタフライ」 蝶々さん。男に棄てられ、自害。
 「トゥーランドット」 リュー(召使い)。主人であるカラフの秘密を守るため、自殺。
            トゥーランドット。氷の心を持つ王女。しかし、カラフの情熱によって、真の愛に目覚める。
 
 と、まあ、なんとも身も蓋もない書き方だけど、大雑把に、さっくりと言えばこんな感じ、かな。
 それに対して、「ジャンニ・スキッキ」は喜劇。
 あとの二作は・・・なんだろう。悲劇? といえば悲劇だけど、プッチーニのタイプとは違う。
 なんせ、レオンカヴァロって印象だし。
 でも、ずっとつながってる。
 
 ヒロインの死に方。
 はじめの方は、成り行きで、死ぬ悲劇のヒロイン。(マノン、ミミ)
 トスカは、意思と言うよりは、衝動。外圧と意思のあいだ。
 でも、蝶々夫人は、明らかに自分の意思。
 アンジェリカもそう。
 リューも、もちろん。
 そして、死なずに、幸せになるトゥーランドット。
 
 しかも、トスカあたりから、神への疑念、を感じるのは僕だけ?
 神、というか、信仰。つまり、キリスト教。
 トスカのあのアリア、スカルピアを刺し殺す前のあのアリア、「こんなにも信仰深い私が、なぜ、こんな目に?」といった内容のあのアリア。
 
 蝶々夫人は、実はもうすこし複雑。
 ただ単に男に棄てられたから死んだ、というのではない。まず、アメリカ人のピンカートンと結婚するというので、キリスト教に改宗している。その上での、自害。父の形見の脇差しで。
 「誇りを持って生きるあたわぬ者、誇りを持って死すべし」と脇差しに刻まれている、その言葉にしたがって。
 実は、蝶々夫人は武家の出。たぶん、明治維新で家が傾き、芸者になった。
 だから、ただ、男に棄てられて、絶望して自害した、というわけではない。
 「武士道とは死ぬことと見つけたり」って、ちょっと、そういう要素も入ってる。
 ただ、キリスト教的な価値観でいけば、蝶々夫人は大罪を犯したことになる。
 そのあたりで、プッチーニ、いろいろ悩んでいたのでは?と。
(「マダマ・バタフライ」初演はさんざんだった。それが、ただ、音楽や幕の形式だけの問題だったのか?)
 
 三部作観てから、「マダマ・バタフライ」(カラヤン指揮、フレーニ、ドミンゴ DVD)観直してみたけど、どうも、「外套」や「アンジェリカ」の前半の暗い世界につながる入り口に見えてしまう。
 そもそも、蝶々夫人のあの美しいアリア、「ある晴れた日に」って、すごく不思議なアリア。
 ピンカートンがいなくなって三年。お手伝いのスズキは、ピンカートンが帰ってくるはずない、と言い張るが、蝶々さんは、「あの人は絶対帰ってくる」と信じていて、それで、「よくお聞き、スズキ」といって歌い始める。
 それが、蝶々さんが信じるいつか訪れる未来、つまり、ピンカートンが帰ってくる日のことを想像してのことだけど、未来のことなのにまるで過去のことを懐かしむような、そんなふうに聞こえてしょうがない。
 フレーニ限ったわけじゃなくて、あのアリア自体にいつもそんな雰囲気が漂っている感じがする。
 
 キリスト教、教会の教えに背き、自殺という大罪を犯す。
 少なくとも、そんなヒロインを描いたこと。
 そして、心の闇、暗い世界へ。
 「外套」は、そんなプッチーニの心の底の闇の世界を象徴している、という感じがしてしょうがない。
 音楽も、はじめから、とても暗く、陰陰としている。
 
 そして、「アンジェリカ」。
 これも、前半は、この暗さを引きずっている。
 だいたい、ある罪を犯して修道院に入れられ、世間とのつながりを絶っているというアンジェリカの設定が、大罪を犯したプッチーニの心を様をやっぱり象徴的に表しているような。
 そして、やはり、自殺という大罪を犯してしまうアンジェリカ。
 でも・・・なのだ。
 聖母マリアは、そんなアンジェリカでさえも、慈悲深くお救いになる。罪をおゆるしになる。
 って、つまり、一般的なキリスト教や、教会の押しつけてくる信仰を別のものにした、自分の信仰にした、とも言える。異端の信仰。ひらきなおり、とも見える。
 でも、これって、まさに、「善人なおもて往生をとぐ。いわんや、悪人をや」じゃないか?
 教会が押しつけてくる信仰ではなくて、それよりも次元が高い、もっと深い、ほんとうの信仰に目覚めたのでは?
 そのせいか、アンジェリカの自殺のところで、なんか、音楽の感じが変わったという気がする。
 ずっと「外套」の響きを引きずっていたのが、明るくなって、「蝶々夫人」の方へ。
 
 そして、「ジャンニ・スキッキ」。
 これは、もう、火を見るより明らか。
 「恐ろしい」教会を、コケにする話だから。
 
 さらに、「トゥーランドット」の、揺るがない愛に死を選ぶリュー。
 リューの自殺は、蝶々さんより、もっと積極的で、ある意味、むちゃ、前向き。
 なんせ、カラフを守ると同時に、それが私の愛の証なのだ、といいきってるんだから。
 自殺が大罪で、地獄に墜ちる、なんて、そんなこと、プッチーニから、もう、完全に吹っ切れてる。
 
 とまあ、そういうわけで、三部作は、オペラそのものよりも、「トスカ」あたりから顕在化してきた、信仰を巡るプッチーニの心のドラマを目の当たりにした、そんな感じ。
 ま、ほんとにプッチーニがどうだったかは、しらないけどね^^
 作品に表現されたものを勝手にプッチーニの思想のあらわれとして考えると、そんなふうに見える、ってだけの話しだけど。
 
 
2013_09
12
(Thu)01:11
最近観たオペラ。テレビで。
 クラインドボーン音楽祭 2013 歌劇「イポリットとアリシー」 ラモー
 バイロイト音楽祭  2013 歌劇「さまよえるオランダ人」 ワーグナー
 ザルツブルク音楽祭  2013 歌劇「ドン・カルロ」 ヴェルディ
 と、全部、NHKのプレミアムシアターなんだけど(笑
 
 「イポリットとアリシー」は初めて。
 これは、演出が面白い。
 ある意味、フロイトが精神病患者の内面に神話を見たような、そんな世界。
 神話を扱ったオペラに、現代の日常生活の演出をすることによって、現代生活の中に「オペラ」を見いだそうとする試みか、と観た。
 
 「さまよえるオランダ人」の演出も「イポリット」に似通っていた。
 伝説のような、神話のような「さまよえるオランダ人」の逸話。ワーグナーの芸術、至上の芸術が、このオペラでは、産業資本主義にのみ込まれて、安っぽいフィギュアに象徴される売り物、玩具、そんな資本主義社会における生産物に成り下がってしまう。
 
 と、この二本、これまでの歌唱中心の直球オペラはもう終わり、とあたかも宣告しているかのよう。
 
 と、そこで、ヴェルディの「ドン・カルロ」。
 オペラの中のオペラ。もっとも偉大なオペラのひとつ。
 けど、このザルツブルクの「カルロ」はまったく、ダメ。
 演出は、ある意味、オーソドックス。衣装も、それなり。でも、これじゃ・・・。安っぽすぎる。
 俳優も、まったく、手のつけようがないくらい。
 オケも薄っぺらい(あとで、ウィーンフィルとわかって、二度びっくり)。
 要するに、この指揮者さん、ヴェルディのことがわかってない。
 ヴェルディをワーグナーのように歌わせ、弾いてどうする? ってな感じ。
 ヴェルディの中でも、この作品は、ヴェルディお得意の二律背反の宝庫みたいな作品。
 主な登場人物の誰もが、二律背反の引き裂かれた自己を抱えている。
 とくに、カルロ、エリザベッタ、フィリポ二世は。
 なのに、だれもその引き裂かれた自己をアリアで表現できていない。
 オケも、表現できていない。
 たしかに、こんなのだったら、先に見た「イポリット」や「オランダ人」みたいになるしかないのかも知れない。
 
 でも、このザルツブルクの「ドン・カルロ」。
 逆にイタリアオペラとはなんぞや、というのをよく理解させてくれた。
 これを観ながら思っていたのが、ムーティ指揮、パヴァロッティ=カルロ、ミラノ・スカラ座の「ドン・カルロ」。
 で、また、観直してみた。
 やっぱ、イタリアオペラはこうでなくっちゃ!
 セットも豪華、衣装も豪奢。どのシーンをとっても、たとえば、ベラスケスのような当時の絵画を見ているかのよう。
 ただ、セットや衣装が豪奢というのではなく、俳優の仕草や物腰も優美で優雅。
 そして、何よりも歌唱とオケ。
 微妙なニュアンスまで表現している。そう、あのアンビバレンツを。
 イタリアオペラは、演出なんかで誤魔化せない。
 むしろ、歌唱は直球勝負で、舞台や衣装や演出もその時代をどれだけリアルに描けるか。
 
 そういう点で言うと、やっぱり、ザルツブルク音楽祭の「ドン・カルロ」は、ちょっとねぇ。
 ドイツでやるイタリアオペラって、どうも、納得できないものが多い。
 セットや衣装はちゃち。
 演出も、奇抜だけど、説得力がない。リアリティがない。結果、演出だけが一人歩き。時には、内容と矛盾したりしている。
 そして、歌唱。
 なんでか、誰もが、ワーグナーの英雄のような歌い方。
 今でもそうなんだろうか?
 イタリア式の発声と、ドイツ式の発声があるそうな。
(日本はドイツ式だと聞いたことがある)
 グロベローヴァは以前ドイツ式だったけど、イタリア式にしてとてもよくなった、と聞いている。
 それに、今回のザルツブルクの、配役もキテレツ。
 カルロの声、暗くて、太くて、胸声が強くて、リゴレットでもやったらよさそう。しかも、ロドリーゴと声の質が似ていて、被ってしまう。
 エリザベッタも、まるでワルキューレか? なんかヒステリックな声質。そりゃ、こういう声はヒロイックに劇をもり立てやすいかも知れなすけど、エリザベッタはそういう性格ではないだろう。そして、このドラマも、そんなふうにストーリー的に盛り上がるものでもない。
 
 パヴァロッティの「カルロ」で、やっぱり、イタリアオペラはいいな~、と再認識、再感動。
 で、次は、フレーニがエリザベッタのを観ようかなと。カルロは、ドミンゴ。指揮は、レヴァイン、メトロポリタンの。
 
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