2018_07
18
(Wed)22:22
 
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七夕も近いということで、かな。  
なんか去年か、いつかか忘れたけど、似たようなのがあったような気もする。
千玉さんにも、なかなか行けていない。
五辻の昆布さんが千本通を挟んでほぼむかい、だったような。
上生は、いろいろと創意工夫に富んだ面白くおいしいものがあるのに、あまりそちらに用がなくなかなか行きづらいのが残念。
 
 
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このあたり、人が詰まっていて、順序が前後しているかも。
塩芳軒さんの普段扱っている飴系の干菓子を知らないので、なんとも。
さざれ石は、ちょくちょく食べます^^
上生は、ホイップしてあるような、ほかにはない食感の羽二重の福梅が大好き。と言っても、最近、やっぱり、あんまり食べてない。 
 

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これは、面白いな~と。
器も、カイラギが面白い。
そのカイラギを白川砂と見立てて、京の庭、といった感じ。
具体的すぎる、といえば具体的すぎるかもだけど、苔とか岩のリアルさ。
ただ、食べたいか、といわれると・・・ちょっと抵抗があったり。
それに、奧さんが言うには、
「お茶の時これがお菓子として出されて、順々に人がとっていって、最後、自分のところにきたとき、関守石だけやったら、悲しくない?」
たしかに、悲しいかも・・・(笑
 
 
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これもなかなか素敵。
奧さんがとても気に入ったみたいだった。
「この銀の器というか箔がきいている。積み重なっているお菓子の色がほんのりと映し出されて、とてもきれい。」
菓子自体も、なんか不思議なオブジェというか・・・。
「伝統」なので「積み重ね」はそれでいいけど、お菓子で表現すると、京華堂さんはこうなるのかぁ・・・。 
京華堂さんとこのは、一回か、二回か、たぶん、そのくらいしか上生を食べてない。
この感性でふだん扱っている上生もつくっていたら、なかなか、かなり面白そうな気もする。
見飽きない。
 
 
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今年も、菓匠会の会場に来るまえに、立ち寄って、お団を2個。
で、一口羊羹を二種。
奥のは杏入りのようで、一口羊羹にもおなじ杏入りのものがあった。
六角なのは、亀屋さんなので。
これも、商品で出してくれたらいいのになぁ、と。
六角の羊羹。
出たら食べてみたいなぁ・・・。
 
 
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とても涼しげなお菓子。
袖系の、これもそのまま売ってくれたらいいのに。それとも、もう、店にあるのかな・・・。
それはそうと、この、うすかわ、なにでてきてるんだろう? と、奧さんはかなり気になっていたようだ。
「まるでイカの刺身みたいな透明感でしょ?」
言われるまで、気づかなかった、まさか、イカの刺身に見えるとは・・・(奧さんは刺身ではイカが大好物)。
でも、たしかに、そんな色、艶、透明感・・・。
それはそうと、なぜだか、浜辺の太陽や海を感じさせる。
漉し餡のは、夕立。
けど、今時のこの酷暑の浜辺ではなくて・・・。
そもそも、夕立なんて言葉は、もう、死語っぽくなってしまった。
 
 
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ここ廣保さんとこのお菓子も、ほとんど、食べたことがない。
なかなかご縁がないのは、場所的な理由かな。
ただ、奧さんが言うように、亀末さんとこの飴にほんとによく似ている。
つつじやたんぽぽ、など、以前華亀末さんとこのを食べたことがあるけど、意匠だけではなく、つつじだと花びらのひねり出し方、というか、摘まみ方いというか、ほんとによく似ている。
おなじところからのれん分けしたのか、どうなのか、何も知らないのでなんとも。
なぜか、「アルプスの少女 ハイジ」のエンディングを思い出した。
山羊が輪になって花畑かどっかで踊ってなかった?
なんかそんな楽しそうな雰囲気がただよっているので^^
 
 
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しらはえ、といって、梅雨が明ける頃吹く南風を。
海を渡って吹いてくる感じで、青海波。
それにしても、これは、葛焼き?(葛焼きだとどこかのおばさん二人連れの一人が言っていた)
きんつば系?
嘯月さんも、地下鉄で北大路まで行ってちょっと西の方へ脚を伸ばさないと行けないので、なかなか行く機会がなくて。
でもなぁ・・・これって、売ってるのかな。
売ってたら、ぜひ、食べてみたいな。
画像、見飽きないが、見ていれば見ているほど、食べたくなってくるし、葛焼きだったらこんな感じか、と想像がたくましくなってしまう・・・。
 
   つづく・・・?
  
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2018_07
17
(Tue)23:03
7/16、例年の菓匠会へ。 
 
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今回の菓題は、「伝統」。
「日本の和菓子の先駆者として、御客様に喜ばれる和菓子を作りつづけたいと思っております。」
ということで、どんなのがあるのかな・・・。
 
展示順で。
 
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いつものことながら、トップの鶴屋さんが、ぐっと。つかみがとてもいい。
あまりにも暑すぎるので、こういうお菓子はとても印象的。
涼しげ。
これは無色と紫、それぞれブロック状に切ったものを市松に並べてある。
竿ものというか板ものというか、こういうの商品にならないかなぁ、と。
ブロックにしないで、ひと続きで。半分くらいでもいい。ただ、結構手間がかかりそう。
あぁ、でも、食べてみたくなる。
味は、まあ、琥珀の味だろうけど、そうでも、食べてみたくなる。
 
 
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楓と撫子の花がとてもすずしげ。
こういう工芸菓子を花代わりに床の花入れに飾ってみたいと、思ったり。
軸も楓かなにかで、そう、ありふれてるけど、楓の木陰に鮎が泳いでいたり。その軸の楓が床の花入れに伸びだしてきている感じで。
で、そのまま、干菓子として、摘みとって、食べちゃう^^
 
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鍵善さんというと、いつだったかの菓匠会の、漫画のような蛙を必ず思い出してしまう。
でも、そのときにくらべると、もう、ぜんぜちがう。
これもすごくいいなぁ。
涼しげで。
これも、食べたくなる。
器も面白い。菓子と器がとても調和もとてもいいなぁ。
 
 
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一時期、お徳用「松風」でとてもお世話になっていた陸奥さん。
お供え用のお菓子のミニチュワ版。
ミニチュを版でも、直に見るのははじめて。
ほかに、お徳用ではない、松風など、普段から扱っているもの。
「伝統」というテーマに、直球勝負、というか、いなおに、そのまま。
とても好感が持てた。
 
 
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ちょっと、色がとんでしまって、残念。 
実物はもっとすっきり、美しかった。
奧さん曰く、「長久堂さんの色やね」。
最近、全然、長久堂さんの上生、食べてないな・・・。
 
 
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この楓は、かなりすごい、と奧さん。
枝も、おかし。葉っぱの軸の付け根の節というか、こぶというか、そこまで再現してある。
 
醒ヶ井、は食べたみたい。
これは商品化されているのかな?
浅はかな思いつきだけど、ミント味とかを期待してしまう^^
グリーンのところがミント。ミントの葛。か、それとも、ジャムみたいなものとか(そんなわけないか)。
白いところは・・・。
そして、醒ヶ井のすずやかであまい水の味。
 
 
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これも、色がとんでしまっていて、残念。
祇園祭と葵祭、かな。
 
 
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あまりにも暑いので、やはりどうしても、琥珀や葛などが涼しげで、印象深くなるなか、これは白雪糕だと思うけど、個人的にはとても気にいっちゃった。
「個人的」というのは、「雅」という題とは別のことを連想したので。まあ、「雅」といえば雅だろうけど。
 
  風そよぐ楢の小川の夕暮れは みそぎぞなつのしるしなりける
 
百人一首の家隆の歌が彷彿とした。
禊ぎをする楢の小川の夕暮れの情景、そのものって。
この歌が彷彿として、涼しくなる。
琥珀で視覚的にみたままに涼しげ、と言うのもいいけど、こういう連想で涼しげというのは、ぼくの好み。
ただ、題は「雅」なので、ぼくが勝手にそう思っているだけかもしれないけど。
ま、そういうのも和菓子の楽しみの一つ。
これは、ほんとに、食べてみたい。
旧暦の6月の晦日などに、ゆる茶で使ってみたい。
さて、道具は何にしようかな・・・。
 
   つづく・・・?

2017_02
10
(Fri)22:38

京都文化博物館で、2016/12/17~2017/2/19まで、開催されている、「日本の表装」展。

1/14に前期展、2/4に後期展にいってきた。

その、後期展で、おもしろいな、と思った掛け軸を二幅。

画像は、同展の図録から。

 

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これは、伝 円山応挙画の幽霊図。

緻密で繊細な髪の毛なのどの描き方が、なるほど、応挙っぽいなぁ、と。

しかも、美人(笑

 

この軸のどこが面白いかというと・・・

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幽霊の下半身・・・

と、いっしょに、軸の中廻しも消えていく・・・。

描かれた幽霊は絵空事なのか、ほんものなのか・・・。

 

これは、布の表装ではなくて、描表装といって、表装も描いたもの。

だから、こんなふうに、脚がない幽霊とともに消えってしまう。

 

また、風帯も、真ん中に一本。

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柱などに掛ける軸をこのように風帯を一本にするということだが、なんか、ブキミ。

見ようによっては、幽霊がつけている三角巾や、卒塔婆にも見えたり。

 

この幽霊図は、見る人を気絶させた、なんていうエピソードもあるそうな。

 

もう一幅は、これ。

P2100181 (336x448)

 

幽霊につづいて、シャレコウベと卒塔婆、というのは偶然で、特に意図はない。

この図は、軸の裏表。

左の裏の方に、斜めになにやら文字が書いてある。

 

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そう、ちょうど表の卒塔婆の裏側にあたるところ。

 

これは、卒塔婆にある「摂州院津田尾京居士」という人の供養のための掛け軸。

供養した(施主)「吉田山智福院現主廿(?)三世 法印権大僧都実盛」の名がある。

 

こんな軸がある、というか、故人の供養に軸を使った、というのも興味深いことだけど、ただ、ぼくが面白いと感じたのは、一文字。

 

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ちょっと細かいけど、宝づくしの模様。

卒塔婆とシャレコウベの図に、宝づくしの一文字。

故人のシャレコウベの図なんて、なんかちょっと縁起でもない、って感じがするし、死者を「冒涜」とまではいわないが、なんとも、グロテスクといった感じもするけど、この宝づくしの一文字を見ると、故人と施主がとても親しく、故人のことを大切にしているんだな、と。

 

シャレコウベを描いてあるのは、(経文に示されている)人の真理を暗示してあるのかも。

いづれ、みんな、こうなるわけだし^^

 

  門松は 冥土の旅の一里塚 めでたくもありめでたくもなし

 

って、一休の狂歌が思いうかんだり。。。

2017_01
18
(Wed)22:59

1/14に行ってきた。

「表装」なんてちょっと、地味~なかんじだが・・・。

掛け軸、といえば、たいていは、本紙といって、その絵とか墨跡とか、手紙とか・・・を中心に鑑賞するけど、今回のテーマは、「本紙」ではなく、そのまわりの「表装」についての展覧会。

 

言ってみれば、「表装とは何か」。

どういうもので、どんなふうにして今のような形になったのか。

また、「表装する、とはどういうことか。どんな意味があるのか」といったことがテーマ。

なので、いわゆる「(美的・美術的)鑑賞」というのとはちょっとちがって。

 

という前に、今どき、いったい、どれほどの人が、「掛け軸」に関心があるのか。

あるいは、必要としているか。使っているか・・・。

ということを考えると、そもそもがマイナーな雰囲気。

しかも、さらには、「本紙」ではなく、それを飾る「表装」がテーマなのだから、ますます、マイナー・・・。

 

今どきの掛け軸、の代表として、たとえば、デパートの掛け軸売り場に行ってみると、どんな掛け軸があるか。

今の季節なら、梅に鶯とか、立ち雛とか、そんな画に、きれいな表装をした掛け軸が、吊ってあることだろう。

今どき、新品でよく目にするのは、出来合いの、こういった美術的鑑賞を目的とする掛け軸がほとんどだろう。

今どきに限らず、江戸時代も、主にはそんな掛け軸が多かったかもしれない。

つまり、「本紙」の画を引き立てるための装飾としての表装(江戸時代はオーダーメードだったとしても)。

この感覚で見ていたので、なんか、消化不良になってしまった。

 

「表装」にはもうひとつの流れがあって、たとえば、代表的なのが、墨跡とか、消息とか、和歌の懐紙切れとか、そういった類のもの。

「えっ、画を飾るのと何がちがうの? 画じゃなくて、字だから?」と思うかも知れないけど、それは表面的な違い。

「画」の方は、「本紙」の「画」が引き立つように飾る。

それに対して、墨跡・消息・懐紙切れなどは、「本紙」の墨跡・消息・懐紙切れそのものではなくて、その人を敬い、慕って、飾る。

この違い。

そして、これは、表装の始まりである「仏」を敬い、飾る、というのにほぼ等しい。

奥さんに言わせてみれば、これは、「座布団」なのだそうだ。

その人をまねいて床に座ってもらうのに、どういう座布団がふさわしいか。

それが、「表装」なのだと。

 

「画」を飾る方は、いわば「額縁」。

 

うちにある軸でも、ほとんどが、この「額縁」の方なので、「座布団」のほうの感覚がわからなくて、それで、ちょっと消化不良な感じに。

「額縁」は「座布団」から分岐した一つの流れ、だと(僕が勝手に理解しただけ)。

見た目はおなじに見えても、でも、「画」を飾るのと「その人」にふさわしい「座布団」を敷くのとは、ぜんぜん違う(と、思う)。

 

そういうふうに見ていくと、「仏」さんを飾ってある「表装」というのが、どんだけ気持ちや心がこもっていることか、あきらかに違って見えてくる。

墨跡・消息・懐紙切れなども、「書」に対しているのではなく、その人本人と対面している気分なのだろう。

そのうえでの、「表装」とはなにか。

「画」を視覚的、美的に飾るのとは、本質的にちがった行為だと。

 

また、軸を仕立て直したとき、旧の表装をとっておく、ということもある(と、初めて知ったのだけど)。

それによって、以前に表装した人が、「本紙」に対してどういう思いを懐いていたのか。そして、その思いも無にしない、大切にする、ということ。

出来合いのものがほとんどの今どきとちがって、オーダーメードだからこそ。

(もちろん、今だって、オーダーメードできるわけだけど)

  

ヤフオクなんかで軸を買うとき、「表装」もよいものと思って買っているけど、こういった人たちにくらべると、まあ、ぼくの思い入れなどたいしたことないなあ、と。

せいぜい、「画」を飾る「額縁」としてどうか、くらいだし・・・。

 

とにかく、ぼくの懐いていた軸に対する感覚とぜんぜん違う感覚・感性によって作られた軸がいっぱいあって、それで消化不良になってしまったようだ。

 

とはいえ、そんなふうにその人と対面しているような軸でも、くるくると巻いてコンパクトにお片付けできちゃう、というところが、なんとなくユーモラスにも^^

 

荘厳に表装した深い信心の対象である仏さんも、ちょっと、いまは・・・とくるくる巻いてしまって、おなじ床に、下心をくすぐるような美人画を飾ることもできるのだから・・・面白い^^

「床の間(とこのま)文化」と、最近ぼくが勝手に名づけている、床の間を中心とした部屋のしつらえの文化の、これこそ、真骨頂、だね(笑

 

2016_10
17
(Mon)01:21

お茶のお菓子がほんとうになくなってきたので、いつものように、亀末さんへ。

そのあと、ちょっと足をのばして、三条新町釜座町の、大西清右衛門美術館へ。

いま、「釜からみた侘び」という展覧会をやっている。

 

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 釜からみた侘び

 

以下、その案内の文をそのまま引用・・・


  「朽ち」「荒れ」「やつれ」。釜の魅力は、美しいことばで表わされます。

   時とともに変わりゆく鉄の釜の姿は、
  「侘び」の美を体現するものとして茶人に愛されてきました。

   今日、「侘び」といえば、ただ冷え枯れた不足の美とのみ捉えられがちです。
   しかし釜においては、侘び味の追求は、簡素を求めるだけに留まりません。

   不足の美学は、華やかな装飾への希求と幾重にも入り組んで相克しながら、
   一つの釜の上に、同じ時代の上に、同居してきたのです。

   釜を通じ「侘び」を新たなる角度から感じていただければ幸いです。

 

と。

 

侘びについては、利休の侘びと紹鷗の侘びがちがう、というのは、以前ブログでかいたので、まあ、いいとして(別にぼくは、現代のお茶が「侘び」をもとめているとも思っていないし、ぼくの勝手流のお茶も「わび」などを理想としていないのでおいといて)、そのことよりも、つよく感じ、考えたのは、「不足の美」ということについて。

この案内の中にも「不足の美学」という言葉があるけど、ようするに、釜の魅力とはその「不足の美」なのだろう。

鉄なんて、普通のイメージでは、なかなか悪くならない、丈夫な物が、じつは、あんがいもろくて、錆びたり、あれたり、やつれたり、朽ちたり、していく、その魅力。

釜っていうのば、じつはかなり厳しい役割を担っているというか・・・苦手な水をたっぷり入れられて、火には炙られるは、熱せられるは、冷まされるは・・・。

子どものころのなぞなぞに、「下は大火事、上は大水、な~に?」なんてのがあったけど、釜を見る度、じつはそのなぞなぞのことを思いだしてたり・・・(笑

答えは、釜ではないけど、釜も似たり寄ったり。というか、この答えのある物より、もっと、ハードでしょう。

ま、とにかくそういうわけで、釜というのは、鉄でありながら、荒れて、やつれて、朽ちていくわけで。

 

そんな釜を見ているとやっぱり、なんとなく、世の無常を感じたり・・・。

 

そして、その錆て、荒れて、やつれて、朽ちた釜こそ、「満ち足りた美」とでもいうか。

傷のない完璧な物こそが、「満ち足りた美」ではない、と。

完璧と言うことは、逆に言えば、「瑕」というものを、「不足」というものを排除しているわけで。

つまり、完璧な物こそ、「不足」のもの。

そして、「瑕」がある物こそ、「不足」というものを持っているというので、これこそ、「満ち足りた美」であり、ある意味、「完璧」なのだ、と。

「不足」をもっているからこそ、「完璧」。

まあ、かなり逆説的だけど。

 

それは、でも、釜に限ったことではなく・・・。

前、ブログに書いた、竹泉さんの御本茶碗。

あの茶碗、銘を「知足」とつけたのだけど、それは、いま、上に書いたこととおなじで。

「瑕」があるからこそ、「足るを知る」、つまり、「不足」ではない。

「不足」を持っているからこそ、「不足」ではない、そして、「足るを知る」ので。

「瑕」があることで、「不足」を排除しないことで、「不足」を持っているからこそ「不足」がなく、それこそ、「満ち足りている」、と。

「完璧」は、「瑕」を持っていないこと、つまり、「不足」を持っていないので、「不足」そのものである、と。

そして、それこそが「足るを知る」ということだ、と。

  

まあ、これは、大陸(中国、ヨーロッパ)的な「瑕一つ無い」ものに「完璧」や尊さを見る、感性とはちがう。

きっと、かなり日本的。

 

なんて、釜そのものを見るよりも、そんなことを考えていた・・・。

 


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