2017_08
17
(Thu)23:19

中身が気にいれば箱なんてどうでもいい、なんてことを前に書いたけど、そう言いつつ、実は、箱書きつき箱とか、結構、好きだったりして^^

 

たとえば、今回のこの箱。 

P8152844 (448x336)

 

家元の手とか、見てるとなかなか面白い。

箱によっていろいろだけど、結構、墨が濃いんだ、とか。

(この箱書きは、それほど濃くない)

 

筆跡を頭のなかで、あるいは、指で他のところに再現しながらたどってみるのも面白い。

 

筆跡で、かなり個性があって、リズム感も面白いな~と思うのが、表千家の即中斎さんの。

 

PC080470 (448x336)

とくに個性的で、独特の書体。

ハネとかも面白い。

で、これを目で追いながら、人さし指で、宙に書いてみたり。

そうするとなんとなく、ああ、ここで力を入れて、ここでこの勢いで跳ねて・・・なんか、面白い。

同じ「作」という字でも、そのときの気分や勢いや、めんどくさいな~みたいなことを思ってたのかどうかは知らないけど、ちょっと雑だったり、丁寧だったり、微妙にちがっていて面白い。

(いまどき、ヤフオクで書き付けはいくらでも見れるので、それでそんなふうに楽しめる)

 

でも、画像より、やっぱり、実物の方がたのしい。

臨場感がある。

この寒雉の釜の書き付けの墨は、とても濃い。

盛りあがっていて、さらには、墨の粒子の質感まで。

「尻張り型ハケメ釜」という釜の名前も、ハケメが見事だから、「ハケメ釜」となったんじゃないかなぁ、とか。

「左 一心」のサイン(花押)も、とてもリズミカル。

 

同様に、寒雉さんのほうの手も楽しめる。

 

こういう箱を、書付箱、とその筋では言うらしい。

つまり、家元の書き付けのある箱。

でも、このふたつの箱、なんかちょっとヘン、じゃないか・・・と、ふと、昨日思った。

昨日に限らないんだけど・・・。

 

なにがへんかな、というと、「共箱」には、作者が、物の名前を書くが、これらの箱には作者の書いた物の名前はない。

共箱だと、たぶん、今回の棗釜は、

 

  亀甲地紋入棗釜

     釜師 清右衛門 印

 

とか。

そう、「御釜師」と「御」をつけてるのもなんで?

 

ま、いまさら、なわけだけど。。。

 

コラボ箱、とはそういうこと。

つまり、最初から、この箱は(この箱に収まる釜は)、家元が物の名前を書くことを前提にして作られたんじゃないのかな、と。

あるいは、家元の依頼でこの釜を作りました、という体裁(実際にはどうかわからないけど)の箱なのではないかな、と。

なので、「御」がつく。

家元の「御釜」を作る釜師、という意味で。

書き付けはことはそういうものだと、その筋では常識なのだろうけど、でも、なんか、コラボしてるというところが、面白くて^^

 

「共箱」に書き付け付というのもある。

これは、作者が箱をつくり、あとから、書き付けをした、ということになる。

たとえば、共箱入りのそのものを手に入れた人が、あらためて家元に頼んで箱書きしてもらった、とか。

コラボ箱の場合は、そうではなくて、最初から、そのつもりで箱まで作っている、というところが、面白いかな、と。

 

で、穿った見方をすれば、コラボ箱の中身。

箱のとおりなら、作る方も、そんな箱に入れる物なんだから気合い入れてしっかりしたいい物をつくるんじゃないかな、とか。

とりあえず、家元の依頼で、という体裁なのだから、家元のメガネにかなわないようなものは入れられないだろう。

 

あと、箱の材も、あまり気にしていなかったけど、杉。

共箱だと桐箱が多い(気がする。今まで、あんまり注意していなかった。また、暇なときにたしかめてみよう)。

桐箱は、江戸中期くらいから使われはじめたそうで、それ前はほとんどか杉箱。

今では、逆に、杉箱の方が珍しい。

杉にするのは、古式に則り、みたいな感じなのかな。

流儀毎にいろいろ約束があるのかも知れないが、ぼくは知らない。

 

紐は、それぞれの色。

ただ、ハケメの方は模様が入っている。なにか意味があるのか?

表千家の紐は、無地の黄色らしいので。

真田紐は、使う家や人によって、その家の、その人のパターンがあると聞いたことがある。

偶然なのか、なにか意味があるのか、持っていた人の好みなのか・・・不明。

たぶん、見る人が見たらわかるんだろうね。

たとえば、書き付け付でも、格とかがあって、紐で区別してるとか。

なにか約束事がある、とか。。。

それとも、やっぱり、ただの持ち主の好みか^^


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2017_08
15
(Tue)23:02

大半書き上がったところで、PCがフリーズして、パーになってしまった、、、のを、また、書くので、きっと、雑に。

 

ヤフオクで、またまた、見つけてしまった。

なかなか美しい釜だったので、ちょっと迷ったが買ってしまった。

それが今日届いた。

 

P8152844 (448x336)

 

箱。

どうやら、箱は本物らしい。

箱書きは、裏千家14代淡々斎。

清右衛門は、書体から、どうやら、13代浄長のよう。

 

とにかく、その釜の画像が、というか、画像のその釜がとても美しかった。

ネットでこういう物を買うとき、そのものの画像を仔細に見ることはもちろん、ほかにもこんなことをする。

今回の場合だと、まず、ヤフオクにあがっている「亀甲紋」の釜をすべてみる。

その次、「棗釜」をすべて。

それから、「清右衞門作」の釜。

それから、上記3つについて、過去の落札(120日だけど)。

それから、ヤフオク以外で、ググってみる。

他のものと比較するとこで、これがどのくらいのものか、また、価格はどうか(即決価格だったので)など、検討する。

 

亀甲紋の釜で、ここまで美しいのはなかった。

畠春斎の亀甲紋棗釜はなかなかわるくなかったし、見た中ではいちばんよかったが、それでも、これにはおよばなかった。

ただ、春斎のは26000円で、こっちは・・・。亀甲紋棗釜にしては、破格な高値。

とはいえ、清右衛門としては、安い。

たまたま、同じ浄長の作が出ていて、それとも雰囲気が似ている。価格は、それの3分の1。

 

はたして、本物かニセモノか。

なんて、実は、ぼくにはそんなこと、どうでもいい。

要はこの釜がいいものであれば、本物ニセモノなど、取るに足らない。

ニセモノとは、この場合、本物の浄長の箱なのに浄長作でない釜が入っている、ということだ。

だけど、この釜自体がいいものであれば、それでいい。本物でないなら、この箱を書いた清右衛門さんと淡々斎さんには悪いが、箱を捨ててしまえばいいだけの話しだ(あるいは、それこそ、箱だけ、ヤフオクで売るか^^)。

 

ただ、価格的には、亀甲紋棗釜の相場をはるかに上まわっていて、当然、浄長として下駄を履かせてあるようだ。

どっちにしろ、浄長であろうがなかろうが、この釜にそれだけの価値があるかないか。その値段をはらっていもいいかどうか。

ということで、この美しい亀甲紋棗釜に、浄長作であろうがなかろうか、それだけ払ってもいいと思い、購入し、今日届いた。

 

試し炊きすると、水漏れもなく(水漏れのないことは商品説明にあったが、念のため)、なかは錆びているのに錆も出ないので、さっそく、使ってみることにした。

湯には、やや、炭酸カルシウムのようなそんな匂い。 

 

P8152850 (512x384)

逆光なのでよくわからない。

 

P8152845 (512x384)

 

ネットの画像では亀甲紋の打ちようが美しく、繊細で、こころが行き届き、釜師の愛情が感じられたが、実物もそうだった。

 

P8152859 (512x384)

 

亀甲紋が、舞っている雪の結晶のようにも見えた。

そんな散らし方、配置。

とても繊細で、丁寧な仕事。

雑なところなど全然ない。

(ネットで見たほかの亀甲紋の釜、なんだか・・・美しくなく、なかには、そうとう雑なのも。亀甲紋なんて面倒臭いので、みたいな・・・)

 

絹肌か、砂肌か、とにかくこまかいその肌と、そこに浮き出ている亀甲紋の調和。

亀甲紋一つ一つの個性と全体の調和とリズム感。

 

よく見ると、たとえば、こんなふうに、擂座の帯にたいしてもいろいろ。

亀甲の頂点が接しているところ、帯の下になっているところ、帯の上になっているところ・・・などなどあり、しかも、丁寧。

 

P8152914 (512x384)

 

P8152916 (512x384)

 

P8152902 (512x384)

蓋も美しい(実物は、もうちょっと黄色みがある)

 

実は、うちにある当代の清右衛門さんの釜の本に、浄長は、「謹厳実直で、几帳面」な性格で、また、「肌と地紋の調和」した釜を作っている、とあった。

「几帳面」というのはこの亀甲紋の打ち方が、その通りだと感じた。几帳面で、丁寧。かつ、愛情まで。

また、肌と地紋の調和、といえば、まさに、この砂肌(絹肌?)と亀甲紋はそのとおりだと。

実物もその通り。

そのうえ、端正で(謹厳実直さからきたのかな)、どこかやさしくあたたかく、そこはかとない品のよさまで感じられる。

 

また、この釜は、どうも和銑のよう。

なかは錆びているのに湯に錆が出ていないことや、その硬い感じ。

 

P8152896 (512x384)

ちなみに、おなじくらいの大きさの、3代川邊さんの糸目とならべてみた。

糸目は、洋銑。柔らかい感じがする。

肌の感じもまったくちがう。

亀甲の方、実際の色目は、こんなに黒くない。もうすこし赤っぽい。

 

割と近いのがこの画像。

P8152893 (512x384)  

砂肌のところは青っぽく、亀甲紋の筋や花など浮き出ているところは赤茶色っぽい。

蓋も合わせて、たぶん、箱通りのものかと。

 

清右衛門さんところ釜って、じつは、ほんとは、ちょっと、好みとちがっていた。

清右衛門美術館に展示してあって、名品だといわれているものも、けっこう、いかつい、というか、威圧感があるものがおおい。たぶん、千家に出入りする前、大名など武家の釜を作っていたためだろう。千家に出入りするようになっても、なんかその感じが抜けてないような。

ネットなどで出てるのも、そういうのが多い。

もっとも、ネットの場合、本物か?というのも少なくないけど^^ なんか極め書きは本物でも釜は、荒肌の、なんかそんな感じのする別の釜に入れかわってないか、ってのが。古いのは特に。

ま、それはいいとして。

  

でも、この亀甲釜は、そういう厳ついところがない。

口まわりや肩の擂座などはかっちり、端正だが、威圧感はないし、亀甲の打ち方にも、威圧感はない。

繊細で、やさしい。

 

鳴りは、きめ細かく、とてもなめらか。

やや高め。

 

使ってみると、いや、見ているだけでも、茶の湯の釜ってこういうもの、という感じがしてくる。

勘渓さんには悪いが、あの胴締め釜がチャッチく感じてしまう^^

(とはいえ、これからも使うけど。いや、確かに、勘渓の箱には「釜師」と書いてない。「鋳師 勘渓」となっている^^)

 

P8152885 (512x384)

 

浄長さんは、大西家13代。

1866(慶応2)~1948(昭和18)年の人。 

それで、いつ、浄長と名のるようになったのか、調べてみたけどよくわからない。

ネットに出ている箱書きをたどると、「清右衛門」でいちばん新しいのが1921年、「浄長」の一番古いものが1928年。

なので、この釜は、1920年代か、それより少しまえのもの、ということになる。

だいたい、100年弱か、100年ちょっと経ったもの。

(いちま、経上がってるよ、この釜も^^)

晩年には鑑定をよくしたということだが、それも、戦時中で釜も作れないような、そんな時世だったからだろうか。

 

以前釜彦さんとこへいったとき、釜彦さんとこには代々和銑が伝わっていて、それで釜を作るのだけど、戦時中はそれを供出させられないようにしていた、と言うようなことを聞いた。

(ほんとに、戦争なんかに使うのはもったいない。安もんですませよ、戦争の道具なんて。とはいえ、武器というのは、じつは、昔から良質な材料をつかったものがいっぱい。日本刀を見ればわかる。命がかかっているわけだから、いい物をつくる。今でも、どこの国も兵器には金をかける)

ひとかたまりの和銑で、30個ほど釜が作れるそうだ。

 

浄長さんは明治以降なので洋銑かと思っていたけど、そうではないようだ。

とにかく、この釜は、清右衛門さんとこの厳つい感じを抜いたら、こんなかんじかな、と。

 

まだ、奥さんはこの釜の実物を見ていないが、画像を見せていろいろ話しを聞いてから、我が家ではこんなことが今の話題になっている。

亀甲の地紋って、どうするの? と。

亀甲のはんこのようなものがあって、それを押して、そのあとで整えるのか、それとも、和紙に下絵を描いて貼ってから、刻んでいくのか。

とにかく、霰とおなじくらい、たいへんな根気と技術と、時間と、手間がいる仕事ではないか、と。

そのうえ、霰同様、センスも。

なので、買うことにした、というのもある。

霰というのは、釜彦さんが言うには、釜師にとって一番の釜なのだそうだ。

さっきも言った、根気と、手間と、技術と、時間と・・・。

その霰と、この亀甲紋も等価じゃないか、と。

たしかに、姿なりや地紋など、もっといろいろ面白いものもあるけど・・・。

亀甲地紋棗釜なんて、ヤフオクではぜんぜん人気がない。落札価格も、ひどいもんだ(安いもんだ)。

けど、ほんとは、結構、根気と、手間で、時間も、技術も、センスもないと美しくできない釜であり、ごまかしがきかない釜なんじゃないかな・・・とか。

ま、でも、結局ぼくが使うんだから、ぼくがいいと思えばそれでいいわけで。

(とはいえ、この釜は、一人で使うにはもったいない感じも。お茶会のような、晴れの場でこそ、という雰囲気がある)

 

P8152870 (512x384)

 

(それにしても、リーマンショックで茶道具の価格も暴落して・・・。ある意味、ありがたいと言えばありがたいというか。「禍福はあざなえる縄のごとし」ってか)

 

2017_08
12
(Sat)22:11

たまたま、ヤフオクを見てたら、見つけた。

色、艶、透明感がとても綺麗なので、買ってみた。

 

P8102779 (512x384)

 

8代宗哲作  溜薬器。

溜塗りの薬器。

帽子棗、とも呼ばれているらしいが、その呼び方は正しくない、とも。

薬器棗、というものもあるが、これとは型はちがう。

ヤフオクでは「溜薬棗」となっていたが、届いてみると、箱には、「溜 薬器」と。
 

P8122830 (512x384)

 

P8102782 (512x384)

「薬器」というわけでか、内側になにか白いものが塗ってある。

なんとなく、釜の炭酸カルシウムみたいな感じで、さわると、ちょっと、カシカシする。

 

P8102801 (512x384)

 

画像ではこの程度だが、実物は、もっと透明感がきれい。

とくに、肩の丸くなっているところ。

また、光のつよさ、見る角度、距離、などなどによって、明るい赤から暗い、ほとんど黒に近い赤までさまざまに変化。

見ていると、この世のモノではないような気がしてくる。

いちまに、「へあがる、ってこういうことやで」とか言ってみたり(笑

 

ふかい、というか。

塗り物なので、木地かなにかの上に塗ってあるだけなのだが、この透明感は、どこまでもこの色、艶、輝きのものが続いている感じがする。

この色、艶、輝きの物体。

とても塗り物とは思えない。

 

溜塗りというのは、赤や紅、時には木地の上に透明な漆を塗ったもの。

時を経ると、透明感が深くなるとは聞いていたが、これほどのものは見たことなかった。

(いろいろ、透明感が深くなる条件はあるらしい)

 

「経上がる」といったのも、半分は冗談だけど、まったくの冗談でもない。

8代宗哲は、文政11(1828)年~明治17(1884)年の人。

この薬器はいつの作かはっきりはわからないが、まあ、150年くらいは経っていると考えてもよさそう。

なので、完全、経上がってる(笑

 

150年を経た、溜塗りの透明感。

この世のものではないような。

 

この美しい透明感もさることながら、もうひとつ驚いたのは、箱から出したときの、手に持ったときの、軽さと堅牢さ。

棗で「軽い」というと塗りの回数が少なくて質的に劣る、という印象を持っていたが、これはその逆。

軽いけど、しっかり。

 

P8102799 (512x384)

 

口のこの薄さ。

約1ミリ。

しかも、この1ミリのまま肩へとつづいている。

あまりにも繊細。

かつ、堅牢。

底の裏の針銘も、思っていたよりかなり小さくて、びっくり。

画像で見ると、拡大されているので、そんな風に思いこんでいた。

 

それに、普通漆器と言えば、木地などに塗ってあるわけで、その「塗ってある」という感じを免れない。

それが、これは、まるで漆そのものといった感じ。

 

12代の宗哲さんがトマトや柿で香合や茶器を作ったことがある、という話を聞いたことがあるけど、たしかに、こういう技術があれば、トマトや柿の薄い皮を活かしてつくれるよなあ・・・とはいうものの・・・。

(これは、乾漆ってこと?)

 

いままで、ぼくが知っていた漆器とは、別次元。

何でもかんでも、溜塗りなら時を経れば、美しくなる、というわけでもないだろう。

やっぱり、150年経っても劣化しないだけのものでないと。

8代宗哲の腕と150年の歳月がうみだした、この世の物とは思えない、色、艶、透明感。

漆器の魅力であり、醍醐味でもある^^

 

ふれたり、扱ったりするのに、値段聞いてもびびったことはないけど、見れば見るほど、この美しさ、触れるのにちょっとびびった^^

 

それとも、この軽さ、硬さからして、この薬器は、乾漆?

だとしたら、木地のものとは、別物なわけだし^^

 よおわからん^^

2017_07
19
(Wed)00:35

冬用に、と思って、ひとつ、唐津の水差しを買った。

P7112390 (448x336)

 

P7112393 (448x336)

 

にしても、これが、届いてみると、商品ページにアップされてた画像とだいぶ雰囲気がちがう。

ま、アップされてたのは、どっちかというと、二枚目の画像のよう。

 

冬用なので、厚手の物が欲しかった。

画像のでは、もっと、マットな感じで。

釉薬的にはおもしろさはあまりない(ように見えた)。

ボディが、なかなか。

ひずみ具合とかもいい。

地味で、渋い、ある意味、そういう茶道具の神髄(?)みたいな感じかな、と。

 

ところが、実際に見てみると、これが、なんとも。

光の加減によって、見る角度などによっても、そうとう、印象が違ってくる。

 

P7132412 (448x336)

こんな金属っぽい光沢も。

陶磁器と言うより、唐金っぽい。

 

P7132449 (448x336)

 

P7132450 (448x336)

ちょっと、銀器かなにかのような光沢。

 

P7132457 (448x336)

 

P7132475 (448x336)

 

P7132489 (448x336)

赤みがかって見える。 

 

P7172618 (448x336)

 

色も、チョコレート色から、天津甘栗の皮のような黒っぽい茶色まで。

ときには、赤みがかっても見える。

銘は、「東光」とあった。

赤みがかって見えるのを、東の光(朝日とか)に見立てたのだろう。

 

また、刀剣か、銀のような金属っぽい光沢。

P7132458 (448x336)

 

P7132466 (448x336)

このあたりは鉄が浮き出ていて、肌は浮き出ていないところよりもすべすべ。

 

P7132470 (448x336)

 

釉薬は、鉄釉。

柿釉か、鉄砂か、そんなところか。

あんまり、鉄釉のものって注意してみたことがないし、それほどのものも持ってもいないので、こんな光沢があるものなんてはじめて。

 

P7132428 (448x336)

一見、なめらかに見える表面。

よく見ると、細かい凹凸が、革か肌のよう。

ガラス質の表面でつるんとなっていると、こういう深みのある光沢は生まれない。

とはいえ、光の強さや角度、見るアングルなどで、こんなに印象が違って見える陶磁器というのは、初めて。

 

唐津水指と、箱書きにはあり、そのままのタイトルで売っていた。

が、届いてからよくよく見てみると、ほんとうに唐津なのか? 疑問が。

 

P7132435 (448x336)

口辺をよく見ると、一箇所、かけているところがあり、どうも、白くて磁器のようなのだ。

その他、口辺のエッジの釉が禿げていたり、薄くなっているところも、白くて、磁器でよく見る感じになっている。

 

さらに、高台まわり。 

P7132436 (448x336)

一見、土のように見えるが、磁器っぽい。

高台内も、これは土見になっているのではなく、釉薬がこのようになっているようだ。

ところどころ砂利も噛んでいる。

 

そして、ボディの形。

そろばん玉、とでも言うか。

こういう形の壷や甕、あるいは水指、唐津ではほとんど見ない。

もちろん、作ればどんな形だってできるのだから、無いとはいえない。が、なんか、珍しい(ので、買うことにしたというのもあるが)。

唐津の釉薬でも、黒唐津ということなのだろうが、なんか、唐津の鉄釉とも違った雰囲気。

 

そもそも、ボディが磁器、というのも。

唐津に磁器なんてあるの?

それで、もしかすると、唐津ではなく、李朝後期の総鉄砂の壷を、水指しに見立てた物か、とか。

釉も李朝の鉄砂紋の色によく似ている。

 

箱書きには「唐津」とあるが、李朝の総鉄砂の壷なんて珍しいので、箱書きした家元も唐津と思ったか。

 

ま、とにかく、なんでもいいけど、この光沢。

そして、色調の変化。

鉄釉の深遠さ、おくぶかさ、を目の当たりにしている感じ。

 

水指しとしても、堂々としていて風格もある。

水指とはこうあってほしい、みたいな。 

 


2017_07
10
(Mon)00:04

貫之を賛した歌が気に入って、計四幅ほど景樹の短冊の軸を手に入れた。

そのなかの一幅。

 

P7092369 (384x512)

いちまと♪

  

P7092373 (336x448)

中廻しと一文字。

中廻しは雲? 

一文字は、松葉。

 

P7092374 (384x512)

 

夏風  夏山農楢の葉ワ多る朝可せ尓

     太毛登を丁そ 趨尓遣礼 景樹

 

夏風  夏山の楢の葉わたる朝風に

     たもとを蝶ぞ 趨きにけれ 景樹

 

夏山の楢の葉をわたる朝風に、たもとを蝶のようにひらひらさせてやってきたよ。

 

歌のすがすがしさをそのまま写し取ったか、強調する表装。

画の軸よりも、短冊の軸の表装の方がより内容を暗示したり、強調したりする仕立てになっているみたいな気がする。

飾る季節としては、梅雨が明けてから、の方がぼくとしてはしっくり来るけど、とりあえず届いたので、奥さんに見せるのもかねて掛けてみた。

 

「楢の葉わたる朝風」という句が、昨日の記事にもした、百人一首の従二位家隆の「風そよぐ 楢の小川の夕暮れは禊ぎぞなつのしるしなりける」を連想させる。

 

そして、「たもとを蝶ぞ」が、すごくいい。

夏の朝風にひらひらとはためくたもとが目にうかぶ。

また、「花蝶図」の蝶も連想させる。つまり、荘周夢に胡蝶と為る、とその蝶。

袖をはためかせて、というよりも、景樹くんの気分は、もう、胡蝶。

胡蝶となって爽やかな朝風にのって夏山を巡っている、という趣き。

 

そのほか、古今の貫之の春の歌 「そでふりはへて」(春日野の若菜つみにや しろたへの袖ふりはへて人のゆくらむ)という句を連想したり、また、古今の秋の歌、これは袖ではないけど、「わがせこが衣のすそを吹きかへし うらめづらしき 秋の初風」なんて歌をとりとめもなく思い浮かべたり。

(秋の初風は衣の裾を吹き返すほどでいかにもひんやり冷えてきたとした感じがするけど、夏の風はたもとをひらひらさせる、爽やかな感じ、かな。とはいえ、古今の秋の歌の第一首、「秋きぬと目にはさやかに見えねども 風の音にぞ おどろかれぬる」にあるように、風は秋の到来を象徴している。でも、この歌は、なんか理念的、観念的。裾がひるがえったり、たもとがはためく方が、鮮明で具体的なイメージ。ただ、「わがせこが」の歌は、ちょっと万葉っぽい気もする)

 

この歌、すごく気に入った。

歌集などで見るよりも、短冊で、しかも軸になっていると、より、歌にも愛着がわく。

軸に仕立てた人も、きっと、この歌とこの短冊が好きで、軸に仕立てたのだろう。

短冊を仕立てた軸は、どれも細身で、小さくて、愛らしい感じがする。

 

P7092370 (512x384)  

 


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