2018_01
30
(Tue)22:33
まだ、庭の雪はこんな感じ。
 
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槍梅とも、相性いいかな・・・。 
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志野茶碗としては、一見、奇をてらってているような姿なり。
でも、そうではない。
使うほどに納得させられる。
こういう茶碗を作りたかったという明確で確固とした意思が表れている。
もぐさ土と志野釉で、用と美とが調和した茶碗をつくると、こういう茶碗になる、という宗麿さんの意思。
「用の美」というが、僕としては、茶碗は「用と美」。
「用の美」というと「美」が「用」に従属する。「用途」があって、その上に付け足しの「美」。「使いやすさ」が先で、「美」は付け足し。
ま、日常雑器ならそれもいいだろう。
ただ、お茶の茶碗では、それではちょっと・・・物足りない。
あくまでも、「用」と「美」は対等でないと。
お茶の茶碗で「用」を極めたもの、極めようとしているものの代表は、たとえば、楽茶碗。
一方、「美」を極めよう、極めているのは、たとえば、織部好みの沓茶碗。
まあ、ごく単純に言えば、だけど。
「用」と「美」を両極にして、どんな茶碗も、このどこかに位置することになる。
あとは「用」に偏っているか、「美」に偏っているかの問題。
 
この志野茶碗は、「用」と「美」が、見事に調和している。
つかえばつかうほど、この手取り、この大きさ、この厚み、この寸法・・・などなど、とても心地よい。
その一方、たとえば、見込みの美しさ。湯を張り、お茶を点て、飲み干した後、と、変幻する。
ただし、この美しさは、この寸法、この茶だまりの丸み、などなどによって作り出されている。
すごい茶碗なんだけど、「すごい」という響きが似つかわしくないので、つかいたくない。
 
つかうほど、もぐさ土と志野釉について、宗麿さんがいかに知り尽くしていたか、ということを強く感じるし、そのうえで、その土と釉とにもっとふさわしい形、厚み、大きさ、・・・などなど、最もふさわしい茶碗がこれであり、この茶碗を作りたかったのだという明確な意思を感じるのだ。
 
ためしに、この茶碗をそっくりそのまま、他の土、釉薬に置き換えてみたのを想像してみるいい。
おそらく、ここまで見事に「用と美」は調和しないだろう。
 奇を衒ったわけではない、というのはそういうこと。
もぐさ土と志野釉のよさがもっとも発揮できて、あるいは、もぐさ土と志野釉にふさわしい、「用と美」が調和した茶碗、それが、このような茶碗となる、というだけの話だ。
 
まあ、でも、志野茶碗というには、異端と言えば異端かも。
というか、すでに、志野茶碗というカテゴリーを超えている。そんな分類からは自由である。
だから、異端でさえない。
異端というのは、結局、正統とペアにならないとなりたたない。結局、正統に寄り添い、正統を頼りにしている。
志野茶碗の「正統」を、たとえば、腰の張った、ぽってりとした、etc・・・といういわゆる、志野茶碗といわれて思い浮かべるような茶碗だとすると、この茶碗は、異端ではない。
それらの志野茶碗と並立するものではないから。
志野茶碗という枠を超えている。
ただ、もぐさ土と志野釉とをつかって作った茶碗、というそれだけの存在だ。
志野茶碗である前に、茶碗なのだ。
 
人というのは面白い。
「珠光青磁」といえば、たぶん、お茶をやっていたり、茶碗に興味がある人なら、それがどういうもののか、おそらく、誰でも知っている。
ところが、べつのもので、いざ、それと「同じ」ものが表れると、拒絶したくなる。拒絶しないまでも、「それは違うでしょう」などと言ったりする。
あるいは、「傷物でしょう」とか。
「珠光青磁」も、いってみれば、焼きそこない。できそこない。ある意味、偶然の産物。
ところが、この茶碗は、歴とした作陶家が、それを意図して、意思を持って作り上げた作品。
「異端」などという言葉では片付かない。
 
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2018_01
28
(Sun)20:26
ヤフオクくじで20%オフ(Tポイントで還元)以上当たったら、買おうかなぁ、とリストアップしてるのがいくつかあって、・・・(笑
結構20%オフくらいだと、よく当たる^^
で、前に当たったTポイントが降りてきて、今回また当てたので、買おうかな、と。
 
その茶碗が、今日届いた(この雪の中。昨日発送でよく今日届いたなぁ) P1285603.jpg
 
石黒宗麿の志野茶碗。
 
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ぱっと見、いわゆる、志野茶碗つぽくない。
いわゆる、というのは、腰がはっていて、釉薬もたっぷり。ときに、鉄絵や窯変や緋色で個性を強調している、というような志野。
そのせいか、一目見て、なんか、いいなあ。
それに、志野茶碗としてではなく、茶碗として、はっとさせるものがあった。
たまたま志野のもぐさ土と志野釉を使って焼かれている、というので「志野茶碗」となっているだけで。
 
そして、こういう志野を作った、作り手の機知というか、センスというか、そんなもの感じた。
いわゆる志野茶碗ではなく、志野茶碗としては、かなり枠にはまってない、というか。
それでいて、ハチャメチャかというとそうではない。
実物を見て、これは、もう古典の領域に入ってるなぁ、と。
この姿なりの、なんと静謐なこと。
ふっくらとしていて厳しい感じはないが、ゆるぎないこと。
 
また、箱の書き付けの手も風雅。
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宗麿さんは、医師の家に生まれたということだが、そういう家庭でつちかわれる教養も感じさせるような。
 
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また、一見、何気ない茶碗だが、見所も結構多い。
たとえば、高台。
3枚目の画像のように、ふつうに置いたところは、なんとも普通の高台。
ところが、ちょっとひっくり返してみてみると・・・
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三日月高台になっていて、筋が入っていたり。
なかは、もぐさ土のざんぐりした感じがよく出ていて、縮緬皺などもある。
また、その中心。兜巾の頂上が、面白くかけている。なにか6辨の花のような。
それでいてまったくわざとらしくない。
この小さな高台の中に、機知が、ぎゅっと詰まっている。
 
高台周り。
ざっくり削ってある。
後で使ってみてわかったけど、この削りがとても心地よく茶碗を持つ指の手がかりになる。
しっかり茶碗が持てる。
当たり前の前のようだけど、じつは、こんなにしっくりくる高台脇の削りというのはなかなかないような。 
P1285606.jpg
 
そして、この高台脇は、猪飼さんの高台脇を彷彿とさせる。
それもそのはず、猪飼さんの師匠は清水卯一で、宗麿はその卯一の師匠に当たる人。
なので、正確には、猪飼さんの茶碗に宗麿の面影があるというのが正しいのだろうが、僕が先に知ったのは猪飼さんの方なので、こういうことになった。
ちなみに、猪飼さんのはボディがもっとシャープ。
宗麿はわりとふっくらしている。
全体の姿なりにも猪飼さんの面影がある(ではなく、猪飼さんに宗麿の面影がある)。
そして、猪飼さんの方には躍動感があるが、こっちは、静謐の中にある。ふっくらとして穏やかなので、一見、それほどぴしっときていないようにみえるけれども、形に揺るぎがない。
 
さらに、ぼくにとってたまらないのは、光による釉調の変幻。
P1285609.jpg  
普通の光だと、まあ、こんな感じ。
たしかに、純白ではなく、すこし灰色がかっているが。
 
P1285613.jpg  
これは、カメラの光を落としたもの。
これはカメラで光を落としたが、暗いところでもこんな感じになる。
やや青みがかった灰色。
ちょっと、鼠志野を思い起こさせる。
 
まあ、でも、使ってみるまではわからない。
飾っておくのが目的の茶碗ではないのだから。
 
2018_01
10
(Wed)20:50

以前、佐々木釜彦さんの店を訪ねたとき、いろいろ話した後、いきなり釜彦さんが店に置いてある釜をさして、「この中から選ぶならどれにしますか?」と聞かれたことがあった。

奥さんも僕も自分がいいと思った釜をあげたあと、釜彦さん自身が選ぶなら、と選らばはったのが、霰釜だった。

釜師にとって、霰釜には特別な思いがあるようだった。

霰を打つときは、一気に打つのだそうだ。一晩、二晩の徹夜もあたりまえ。一度打てばそれでいいというものではなくて、粘土の型なので、あたらしくひとつ打てば前に打ったのがゆがんだりするので、もう一度打ち直して形を整える。さらに、そのあとで、また整える・・・と、いう作業を、延々、1000~2000粒、とか・・・。

それを、一気にする。そうしないと、調子やリズムがかわって、きれいな霰が打てないそうだ。

そんな話を聞いて、とてもじゃないけど、ぼくにはできないなあ・・・と(笑

 

そういうわけで、霰釜というのは、なかなか、ぼくにとってもちょっと特別な釜という感じで、ほしいなあ、と思いつつ、なかなか手がだしづらかった。

 

もうひとつ、手が出しづらかったのが、霰の調子、というか、勢い、というか。

釜彦さんがいうには、霰釜の霰はツンツンにとがっているのがいいそうだ。指で触れたら肌がひっかるくらい・・・(って、まるで、凶器?^^)

そして、結構、そういう元気な霰の釜が多い。

なんか・・・僕個人としては、いら~として、攻撃的で、あんまりすきじゃないなぁ。。。

そんな釜でお茶飲んでても、くつろげないし、落着けないなぁ。。。みたいな。

まあ、いら~とはしなくても、霰は、威厳があったり、威圧的であったり。

前に、清右衛門美術館でみた、霰の釜も、それは武家好みの釜だったけど、とても威圧的。それを目的に作られているのだから、当たり前といえば当たり前なんだが。

とにかく、霰釜は、威圧的で威厳に満ちいてるとまではいかなくても、けっこう、いかつかったり、とかの雰囲気のものが多い。

(大西系の霰釜はその傾向大、寒雉でもいかつかったりする)

そんななかで、ある時、京都のお茶道具屋さんで、寒雉作の小霰棗釜というのを見た。

細かい霰で、とても美しかった。

こういう霰釜ならほしいなぁ、とは思ったものの、棗釜はもう持っていたし、値段も20万もするのは、僕は買う気にはならない^^

 

そんなこんなで時が過ぎてきて、まあ、例によってネットオークションで。

霰の肌がよかった。元気な霰ではなくて、朽ちた風情。

また、尾垂れというのもいいかな、と。

尾垂釜というのは、もとは普通の釜だったのが長年使っているうちに底が悪くなって、それを外回り小さな底に入れ替えた釜(あるいは、それを模してつくった釜)。

なので、霰が朽ちている風情というのは、尾垂釜としてとても理屈に合ってもいる。

火に当たる底は朽ちてしまい、肌も朽ちていく過程にある釜を、尾垂れにしたんだ、と。

もともと百会霰釜だったのを、悪くなった底を入れ替えて、尾垂れにしたと、そんな物語を演出しているというのも、おもしろいかな、と。

また、尾垂れなら、甲と底がぴったりの釜よりも、多少、いかつさもなくなるかな、とも。 


その釜が今日届いた。


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ただ、実物を見て、なんか・・・足をすくわれた、というか。。。

思ってたより、かなり、こじんまり。

(胴径が万代屋釜くらいあるので、おなじくらいのヴォリューム感があるかも、と思っていたが)

いや、かなりのカルチャー・ショック!

こんな釜もあったのか・・・。

ネットの画像で見たのと、印象はだいぶちがう。し、朽ちていくというあの物語とも、全然違う。。。

 

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なんか・・・ラブリー^^

霰なので、いかついのが、朽ちていく感じでなんとかいかつくないかな、とおもっていたのが・・・ 

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たおやか、というか・・・。

それで気がついけど、なんやかんやいいつつ、うちの釜、けっこう、どっしりとしていたり、堂々としていたり、重厚だったり、あるいは、男性的だったり。

それにたいして、この尾垂れ、なんとも女性的、というか、京女っぽいとでもいうか・・・。

たおやか。

いかにも、威厳があったり、重厚だったり、堂々としていたり、という釜はあまり好みじゃないので避けてきていたと自分では思っていけど、この尾垂れとくらべると・・・。

 

しかも、かろやか。

秋、冬くらいに使うつもりが、真夏でも使えそうなくらい。

 

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まあ、西村道也なので京釜といえば京釜なわけだけど、だから、なんか、京女というか・・・。

 

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霰一粒一粒が、なんとなく朽ちていく過程のようだし、霰の間の肌も、ほろほろと朽ちて行っているような、そんな表現。

別の見方をすれば、もともと普通サイズの霰粒だったのが、朽ちて小さくなってきている、とも。

あるいは、もともとは平らだった釜肌が、朽ちて、霰のように凹凸ができた、とそんな風にも見立てができる肌。

小霰のものでも、ここまで繊細で行き届いた表現なのは、さすが、道也さんってわけ、かな。

また、霰の粒は、口の周りは小さく、尾垂れの先の方へ行くほど大きくなっている。

 

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蓋も特徴的、というか。

一見何でもない、ありふれた蓋のようだけど。

薄くて軽い。が、ちゃちでもないし、やすっぽくもない。

画像でははっきりしないけど、おだやかな掬い。

霰同様、とても丁寧に作られている感じがする。

表面の加工も、あまり見たことがない、というか。

こういう色も。

つまみは、なにかな? かたばみ?

とりあえず、何か花のつぼみ?

 

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鐶も小さめ。

上が、尾垂れの鐶。

左が、佐兵衛浄元の鶴首、右が釜彦の撫肩の鐶。

 

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いつものためし炊き。

湯に錆はほとんどなし。

臭いが、けっこう。古い鉄のにおいと、炭酸カルシウムみたいな。。。

水を入れる前に釜全体を濡らす。そして、火にかけると、尾垂れの先から水がぽとぽと垂れて、そのさまが、また、なんとも、風情があるなぁ、と^^

 

2017_12
31
(Sun)01:16

以前、手に入れた独楽棗。

おなじ、駒澤利斎さん、作。

 

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かと思いきや、じつは、同じ人物ではない。

独楽棗は、14代。

今回の、一位棗は、13代。

じゃあ、親子か、というと、そうではない。

じつは、ご夫婦。

14代は13代の奥さん。

13代がなくなった後、14代を襲名。

なので、この二つの棗、いわゆる世間でいうところの「夫婦云々(たとえば「夫婦茶碗」とか)とは意味は違うけど、僕的には、「夫婦棗かな」と^^

PC264934 (512x384)

 

こうやってふたつ並べると、なんか、不思議な縁を感じるとともに、しっくりきて、happyな雰囲気が・・・^^ 

なんか、そろってよかったなあ、揃うべくして揃ったんだよなぁ・・・と、ほっこり^^

(揃えてやろう、などとそんなことは僕はおもわない。たまたま見かけていいと思ったのを手に入れたら、たまたまそうだったというだけ)

 

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ちなみに、箱の署名。

左 13代     右 14代

14代のは、独特の曲線、というか、丸が特徴的。細い筆をやわらかく使っている感じ。

13代は、力強く、勢いがある。 

 

さて、独楽棗のほうは、箱から、1959年、昭和34年ころのものとわかる。

14代50歳、襲名後、6年目。

一位棗のほうは、1903~1937年、明治36~大正12年のあいだかと。

もしかすると、百年以上たっているかも。

なのに、狂いがまったくない。

蓋と身がぴったり。蓋をする感覚は、緻密な、とでもいうか。きつくもなく、ゆるくもなく。そんな木を選ぶ目、見抜く目。そして、ただ、狂いがなければいいというだけではなく、美しい木目を見抜く目。

どんな木目を美しいと感じるか、それは、好みでもある。客観的に美しい木目、というものは存在しない。好みであると同時に、お茶という伝統の中で培われてきたもの。そんな木目を見抜き、形にする目と腕。

ただ、「名木」を棗の形にすれば、「名木棗」ができるわけではない。そこに現れた木目や姿なりが、お茶の美意識にかなっていなければ。そういう美意識に裏打ちされた目をもっていなければ、そういうものは選び出せないし、作り出せない。

この一位棗に、動かしがたい美しさ、というか、動かしがたい気品というか、そういうものを感じる。

そのうえ、神がかっている、というか、奇跡、とでもいうか、そんなものを感じる。

蒔絵なども、たしかに、人の腕の生み出した奇跡といえるものもあるかもしれない。

でも、これは、自然と人がうみだした奇跡、とでもいうか。しかも、人の手がしたことといえば、ほとんど、削るということだけ。

蒔絵など人が到達した美しさや奇跡があるかもしれないが、そういうものとはちがった素晴らしさや感動を、この棗に覚える。

「以圓山 名木」という言葉は、そういうことでもないかなぁ、とも。

名木がある奇跡と、名木に出会った奇跡と、名木を名木足らしめた奇跡、と。

  

一位棗の方は、しゅっとしていて、端正で、気品があり、どこかあでやか、華やか。

これは、たぶん、淡淡斎さんの趣味、好みでもある。

うちにある、淡淡斎好み(箱書きに「好寫」と自分で入れてはる)、亀甲地紋棗釜にも、おなじ雰囲気がある。

一方、独楽の方は、少々ゆるい感じ。塗もなんかぎこちなさがあるような。そこが気に入っているんやけど^^

大徳寺の雪窓禅師さんの箱と花押。大徳寺系の好み物は、どこか、ゆるいというか、なんかそんな雰囲気があるような気がするので、その好みに合わせたものかもしれない。

14代の独楽棗でも、鵬雲斎さんの箱書きのものは、塗ももっとかっちりしている感じ。

塗師作(たとえば宗哲さんとか)の独楽棗も、漆の硬さと塗の正確さで、カチッと堅牢な感じがする。

(13代の独楽棗は、カチッとしていて、重厚感もある)

この独楽棗は、ゆるく、やわらかい。そこが、いいなあ、と。

14代の浪江さんは(13代にしてもだけど)、男の子をなくしている(しかも、生まれた翌年に)。勝手な思い込みだが、なにか、そういうお子さんに対するやさしい思いが、男の子のおもちゃをモチーフにした、この独楽棗には出ているか、とか。まあ、大徳寺さんの好みとも相まって、だけど。

まえ、この独楽棗の手触りが、積み木のおもちゃをおもいおこさせる、とも書いたけど・・・。

一位棗の方はまったくちがう。緻密な木工品、とでもいうかか、緻密な家具、とでもいうか。緻密で、神がかっている。たかだか、棗なんて、蓋と身があるだけのもの。それに、緻密、って。。。

 

まあ、でもそんな対照的な棗だから、よけい、ご夫婦おそろいでほっこり、という感じがする^^

幸せな雰囲気が漂っている^^


2017_12
30
(Sat)23:57

ああ・・・

12/26にパソコンが壊れて、当面、奥さんのパソコンを貸してもらうことになったのはよかったが、長い間使ってなかったので、立ち上げると、大量のwindows update 。その途中でうまくいかなくなって、リカバリ。

そのうえ、次のパソコン探しや、正月の準備などで、なかなかアップできなかった。

 

12/26に届いた、一位棗。

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13代駒澤利斎作

一位の木をくりぬいただけの棗。と言ってしまえばそれだけだけど・・・。

でも、なんとも、品位があり、端正で、どこかあでやか。

ネットの画像で見たときは、内側の木目が特に気に入ったので。

 

PC264931 (512x384)

 

PC264936 (512x384)

 

外側は、オイル仕上げ?のような感じ。それとも漆? 

内側は、そのままの生地。

 

PC264945 (512x384)  

 

箱書きは、淡淡斎さん。

たぶん、僕のいうところのコラボ箱。

箱書きには、 

  

   利斎造

  以圓山

    名木

  一位棗

   宗室

 

とある。 

蓋裏に、花押。 

 

この箱書きがあることで、いろいろと想像が広がる。

「圓山」とは、やっぱり、京都の円山公園のことだろう。

もともと寺社の庭だったり、敷地だったりしたところを、明治維新の廃仏毀釈で政府が土地を取り上げて、公園にしたところ。

なので、「圓山名木」というと、そういったいわれのある一位の木なのかもしれない。

また、円山公園といえば、枝垂桜、という連想が働く。

すると、この生地の棗が、どんな華やかな蒔絵を施した桜の棗よりも、華やかにも感じたりする。

まるで、能のような。

とても、この箱書きがものをいう。

そういう意味で、お茶の道具らしい道具、だなあ、と。

 

でも、それだけじゃなかった。

届いてから、何気に、ネットで検索していたら、実は、この棗には姉妹とでもいうか、そういう棗が少なくとも二つあることが分かった。

木目が本当によく似ている。

しかも、箱書きは、おなじ 淡淡斎さん。

 

無題2 (512x288)

 

無題 (512x288)

(上記2画像、オークファンより)

 

ただ、箱書きが違っている。


一番大きな違いは、どちらにも、「以圓山 名木」という文言がないところ。

(宗室、今日主では、蓋裏の花押も違っているが。裏千家は、「今日庵」なので)

説明の画像もあり、それをずっと見ていくと(ここには載せないけど)、なんとなく、この文言を書いたり、書かなかったりした淡淡斎さんの気持ちがわかるような。

同じ木から作っているのに、「以圓山 名木」を入れるか入れないか。

入れたくなるか、ならないか。

たぶん、入れてあるのは、より、淡淡斎さんの美意識にかなっていたのだろうな、と。

また、出来具合も、すこし、よい感じ。

たとえば、蓋と身がぴったり。

文言がない二つは、すこしだけ、ぴったりとはなっていない感じがした。

「以圓山 名木」という以上、それがなるほど、名木からつくられている、と納得させるようなものでないといけないだろう。

ほかの二つは、そういうには、すこし、足りなかったり、過剰だったりすると、感じた。

 

ほかにもいろいろ奥さんとも話したが、疲れているのでまたいつか・・・。

(書かないかも・・・)

 

1まいめ、2枚目の画像は、淡淡斎さんが正面としたところとは違うところをでとっている。こちらに向けてある。

  

PC264952 (512x384)

 

ここが、正面。

 

無題3 (512x288)

 

ちなみに、ヤフオクの画像。

同じ出品者なので、画質や撮影条件などがほぼ同じなので、比較するのにわかりやすい、かな。


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