2011_07
26
(Tue)01:48
 きことわ。どうも、最後まで読めそうにない。
 退屈。
 いくら時間のあつかいがどうのこうの、っていっも、結局、記憶だの時間だのなんて、自分の頭のなかの出来事でしかない。
 書こうと思えば、そら、誰でもこのくらい書けるのでは? と思えてくる。
 ただ、そのためには、言葉に現実の裏付けがないこと、が条件だろうけど。
 きことわ、読むほどに、空虚なうつろな話にしか思えなくなってくる。
 まるで、子供が、おぼえたての言葉を、自分の生からくる実感やリアリティもないまま、もてあそんでいる感じだ。
 そんな言葉で構築された積み木。
 なんかそんなふうに感じられて、読むのがむなしくなって、それこそ、苦役になってきた。
 書かれている内容も、なんか、興味も持てない、退屈なことばかり。
 なんか、こんなのを、ほんとに、選者のみなさん、圧倒的に支持しちゃっていいの? って思えてくる。
 
 今回の選評で、だんなんの感覚に一番近いのが、なんたることか、僕の嫌いな、石原慎ちゃんだ。
(嫌い、というのは、ことに、プチ・ファシストのよう東京都知事慎ちゃん)
 そのせいか、今まで、選評読むたびに、おいおいって思ってたが、今回は、あまりにも近しい。親しみさえ感じてしまう。
 彼の言う「身体性」というのが、僕で言うところの「言葉の現実からの裏付け」とか「生からくる実感やリアリティ」っていうことだ。
 
 とにかく、こういう空虚な言葉の積み木遊びにつきあうくらいなら、ぼ~としてたほうがいいなぁ、と思ってしまう。
 
 だから、たぶん、きことわはこのまま挫折。
 ま、好みがあわない、ってことだね。
 それにしても、きことわに関して、石原慎ちゃんと近しいということが、かなり、ショックだった(笑
 
 
 ところで、選者の評、というのもじっくり読むと実はなかなか面白い。
 この小説(世界)が、この人にはこんなふうに増幅されて見えてるんだ、とか。
 このくらいの表現が、この人にはこんなに大仰に感じられちゃうんだ、とか。
 案外、そっちの方が面白かったりして。
 
 でも、だんなん的には、以前のひどい状態(町田康 だの 笙野頼子 だの 平野啓一郎 だの)からすると、ちょっと面白い小説が出てきたような感触。
 ただ・・・じゃ、いくらだったら買うか? ときかれたら・・・
(そう、だんなんが読んでるのは「文藝春秋」を図書館で借りてきたのだw)
 きことわ は、もちろん、買わない。
 苦役列車、150~200円の文庫本だったら、まあ、買ってもいいかな?
 
 「以前のようなひどい状態」というのは、なんか、こういう感じ。
 読む方は、自由な消費者。別に、現代の小説だけが楽しみ、というわけではない。たとえば、だんなんにしてみれば、お茶もありゃ、花もありゃ、ネットもありゃ、映画もありゃ、オペラもありゃ、アニメもありゃ、庭もありゃ、いちまの縫い縫いもありゃ、和歌もありゃ、能もありゃ、ワインもありゃ・・・と楽しみはいろいろある。
 
 この楽しみはもちろん、人それぞれ。
 つまり、これらの楽しみに優先順位をつけるとき、ある小説は一体何位になれるか、ということ。
 というか、時間と資金が限られている以上、優先順位をつけざるを得ない。
 そのとき、この小説は一体何位?
 
 つまり、そういういろいろな楽しみと現代の小説は、否応なしに競争しなけゃいけない、一時でも、こちらに消費者の興味をひきつけないといけない、そんな魅力があるのか? って。
 以前、幸か不幸か、文学や小説が特権的な時代があって、小説に関わっている人たちはいまだそんな気分が抜けてないんじゃ?って思えるフシがあるような・・・・そんなのが以前には往々にあった。
 競争相手は、同業者の小説や作品ではない、まったく別のジャンルのありとあらゆる楽しみ、っていう、そういう現実を認識してるのかな? って思えるようなものだ。
 
 今回の小説は、とりあえず、そういうスタートラインに立っている、と思える、そこがいいと思った。
 それに、すくなくとも 苦役列車のほうは、読んで時間を無駄にしたとか、そういう感じもなかった。
(とはいえ、告白しよう、実は途中退屈になって、いくらか読み飛ばしたりした)
(まあね、読み飛ばされるのも作家の幸せ、とバルトがプルーストについて語っていたから、気を悪くしないで^^)

 
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2011_07
23
(Sat)22:05
 菓匠会の途中だけど・・・。
 ずっと気になってた、今年度前期の芥川賞の小説をやっと読むことができた。
 感想。
 
 苦役列車 西村賢太
 噂では、かなりヤバイ日雇い労働者の話、みたいな感じだったけど、読んでみると結構、普通。
 (というか、読む前に勝手に想像ふくらませてただけかも知れないけど。。。)
 普通、というか、日雇い人足の主人公の貫太は、まとも、小市民。ただ、職業が、日雇い、というだけ。
 もっと、ハチャメチャで、ぶっ壊れてる、ヤバイ主人公を期待してたのに。と、これは、こちらの勝手な期待なので、これでこの小説をどうこう言うのは酷だな。
 文体、このヘタウマな文体は魅力的。語り手の主人公が小市民的な性格だからか、かえって、この文体が輝く。この文体、この人才能あるな、と思う。
 が、器は小さい。なんせ、小市民。小市民的日雇い人足。どこの会社にも、あるいはどこの学校にもいる、自分にコンプレックスを持ってる若い男がしそうなこと、感じそうなこと、考えそうなことが、日雇い人足という「新しい」衣装を纏って描かれている。しかも、この貫太、一応、19歳。19歳の日雇い人足、というよりも、19歳の小市民、というのに驚く。19歳なのに、こんなに完璧に小市民になっちゃって、将来どうするの? と言いたくなる(笑
 と、書きながら、勝手に頭の中で回ってるのが、中上健次の『十九歳の地図』。こいつは、ヤバイ野郎が主人公だった(笑
 ま、比較してもしょうがない。時代が違う。こんなにも、小市民的感覚や価値観が、若年者にも、そして、日雇い人足が社会の最下層に属する人びとだとすると、そんな人びとにまで浸透しちゃってるなんて! ある意味、バブル崩壊以降の日本はすごい。
 貫太くんは、自分がだめな人間だとか、何だとか、いろいろ自虐的に言っているが、結局、小市民の理想であるコームインやリーマンになれなかったから、ただそれだけのこと。(日下部というのが、小市民的理想を実現したわけだが)
 といいつつ、実は、日雇い人足という社会的な立場に、なんとなく、安住してる感じもする。「私小説」というジャンル上、ダメ人間だの、何だの、自虐的なことを言っているような感じで、そこが、器が小さいな、と思ってしまうところ。つまり、「私小説」に安住してる。
 「私小説」と言うジャンルを、ぶちこわす、勇気が、あるのか? ないのか?
 受賞の弁やインタヴューによる限り、今のとこ、なさそう。。。
 ヘタウマな文章は魅力的なのに。でも、このヘタウマな文章では、「私小説」というジャンルにたてつけるほどの強度も臂力もなさそう。
 
 
 きことわ 朝吹真理子
 冒頭、ちょっと読んで、この人はうまい、と思ったものだ。
 どううまいのか。いままで小説というジャンルが蓄積してきた「公式」をほんとに上手に使っている。こういう風に、上手に「公式」を使いこなされては、同業者の圧倒的支持を受けるのは当然だ。
 でもなぁ~、だんなん、残念ながら同業者じゃない。物理学者にとって「公式」は完璧でリアルでも、実際に生活している人間にとって、それはあんまりリアルじゃない。たしかに、ある条件下で、その「公式」はリアルで有効で美しい。が、実際の生活では、いろいろなノイズや夾雑物があるから、「公式」通りにいくことはまずない。そういうノイズや夾雑物に耳をふさぎ目をつぶって読むと、この小説はやっぱりすごいのだろう。
 でも、だいたい、素人なんて、夾雑物やノイズだけの感性で小説を読む。そうするとなんか、細かいことが、いろいろと気になり始める。
 たとえば、永遠子と貴子が車の後部シードでじゃれ合ってるシーン。すごいなあ、ここも、と思う。象徴的で、暗示的で・・・普通、こんなに上手に描けないだろう、こんなに上手に「公式」使いこなせないだろう、って素直に感じる。が、一方、15歳の永遠子と8歳の貴子がじゃれあってて、自他のわからない状態になるなんて、とノイズが聞こえてくる。もちろん、本人同士がそうなる、というのは、まあ、詩や小説では、愛しあうシーンなどでは基本的な表現上の「公式」だ。ところが、それを見ている母親である春子までわからなくなる、って? むろん、表現上のなにか、だとはわかる。永遠子と貴子との関係をあらわしている何か、暗示している何か、だろう、とはわかる。「公式」の応用、だとはわかる。けど、15歳と8歳といえば、体格的に、かなり差があるんじゃないのか? なんてノイズがささやく。いやいや、永遠子は実は8歳なみの成長不良少女だったのかも知れないし、いやいや、貴子が15歳なみの健康優良児だったんだ、とか・・・いやいや、二人とも、11~12歳なみの体つきだったんだ、とか・・・たぶん、というか、99%までこの小説にとってはまったく無意味な、考えるだけ時間が無駄な、そんないらんことをいろいろ考えてしまう。もちろん、このシーン、もしかすると40歳の永遠子の夢なのかも知れない、と思えば、結局、夢のなかの登場人物の春子は永遠子の分身だから、区別がつかなくてもイイじゃん、とか、それなりに解釈してしまったりするのだが・・・。
 占いや宗教者の説教などと同じで、小説も、どんなにむちゃくちゃなことが書いてあっても、それについて思いを巡らせれば、それなりに、なんとなく納得できる解釈ができて、そのむちゃくちゃなことを受け入れることができてしまう、という面がある。
 普段から「公式」にどっぷり、というか、「公式」を使う訓練をしている同業者の人たちは、こういうノイズなしに、すんなり、「公式」の上で、「公式」にそって、「公式」を使って、受け入れられてしまうのかもしれない。
 けどなぁ、素人のだんなんとしては、いちいち、その「公式」がノイズからしてもリアルかどうか、たしかめながらじゃないと、読み進めない。そうすると、かくも見事な「公式」集は、かくも見事な「公式」集であるがゆえに、うつろなうわべだけの感じのものにも思えてしまう。
 でも、あま、これは、こんな読み方をしてしまう、だんなんの責任、といえばそれまでだけど^^
 「公式」と言ったが、小説の「公式」と物理の「公式」とは性格も性質も違う。
 この作家さんが、ほんとに上手なことはよくわかる。でも、その「公式」に疑問や違和感を持ってないのだろうか、というのがだんなんの疑問。あまりにもうまく「公式」に立脚しているので、「公式」に違和感を持っている人からすると、この小説世界はいともたやすく瓦解する? ・・・かな?
って、ま、そんなヤツは最初から小説なんか、読まないか。縁無き衆生は度し難し?(笑

(きことわ まだ途中)
 
 「私小説」に安住と、「公式」上の楼閣・・・何となく、似たもの同士?
2011_05
19
(Thu)02:24
 最近、トーマス・マンの「ブッデンブローグ」と「トニオ」を連続で読んじゃった(笑
 「ブ」を読んだ勢いで「ト」もイケイケ、て感じで。
 
 「ブ」は、現在絶版中。図書館のを借りた。「ト」も図書館のを借りて、読み終わって欲しくなって岩波文庫のを注文した。
 
 「ブ」は、読んでいるととても不快感のある小説。なんせ、繁栄している豪商でもあり地方の名家でもある一族が先細りで絶えていく話だから。はじめから、絶えていく予兆がぷんぷん臭っている。
 それにしても、アントーニエを見てると、こういう家に生まれた女は不幸にしかならないのかなぁ、というか、不幸にしかなれない思考法だなぁ、と思えてくる。で、もう、とっても個人的な読み方だけど、ウチの母親を思い出す。よく似ていた。発想法や、行動様式。
 小説を読んで、人は何を理解するのか? 小説のなかに何を見るのか?
 たいていは、自分? 自分の姿?
 母親の姿を見た気がする。というか、僕にとって母親の不可解だった生き方に、このアントーニエの思考過程を注入すると、なんとなく理解できてしまった、というか。。。
 表面しか見えなかった母親の不可解な生き方、このアントーニエの内面につきあうことで、それを内側から見ることができたような。
 彼女は自分では自分の意思で自分の生き方を選び取っている気でも、髪の毛の先まで家に支配されている。ただの家、じゃなくて、「名家」という家。こっちから見てると、ちょっとその枠から出れば、いくらでも別の幸せがあるのに、そういうのは全然見えなくて、不幸ばかりを選んでいく。
 あんたのその考え方、感性じゃ、そりゃ、不幸にしかならないよ、と何度もつぶやいたね、オレは(母親に対してじゃなく、アントーニエにたいして)。。。
 いくら地方の名家か知らんが、そんなもん、そんな枠、捨てちゃいなさい、そこから自由になりなさい、ってね。
 けど、その不幸の根源こそが、逆に、彼女たちに不幸な人生に耐える力を与えている。なんて悪循環! 
 
 それにしても、そういう繁栄しているある一族が滅びていくのは、健康の問題なんですねぇ。
 マンは、一族の滅びていく象徴としてそういう存在を描いたのかも知れないけど、だんなんには逆に見える。
 まさに、体力、健康の問題。そして、そんな不健全な体に、不健全な精神や内面が宿る。で、滅びていくのに拍車をかける。
 
 
 「ト」は、まあ、「ブ」の一部を切り取った感じ。ただ、「ブ」では一族の男はみんな死んでしまうが、「ト」では芸術家として名をなす。
 懐かしい、というか、ぬるっとしていてなまなましい感じがしたのが、トニオが生家を訪れる場面。
 トニオの生家は今は図書館になっている。つまり、没落して売りに出されて、図書館になっている。
 自分の生まれ育ったところが、別の何かに変わっている、その別の何かになった生家を訪れているあの感じ。
 なーんか、イヤだけど、懐かしい、っていう妙な感じ。
 
 しかし、それとは別に、トニオは不幸だな。
 自分の愛する物に手が出せない。
 それは、「ペニスに死す」のアッシェンバッハと同じだ。
 自分が愛する美しいものを見ながら死を迎える、これは、たしかに、幸福とも言えるが、裏返せば、愛するものに永遠に触れることができなくなる、あるいは、愛するものに触れることを拒絶している、ともとれる。とすると、不幸だ。というか、「ト」と「ベ」のラストは、同一のものの裏表。
 「ト」のトニオはそんな自分を不幸だと思うが、「ベ」の教授は幸福だと感じる。(トニオは死ぬわけではなくて、かつて自分が好きだった男とかつて自分が好きだった女のようなカップルに思いをはせている)
 
 結局、愛するものに触れられない、ということは変わりない。ただ、以前はそれを不幸だと思い、今はそれを幸福だと思う、、、
 どうせなら、愛するものに触れられない、というところも変わっちゃえばいいのに、なぁ。。。
2011_04
22
(Fri)00:49
 先日、なにげに図書館で『文学界』(5月号)という「純文学」の雑誌をパラパラと、
みてたら、島田雅彦の連載があったので、なんとなく読んでみたら、なかなか面白かっ
た。
 島田雅彦、っていうと、だんなん的にはデビューした当時の三作くらいしか読んでな
くて、ロシア・フォルマリズムがどうのこうのって、いう感じだったけど、まあ、それ
も当時のモードの一端だったのだろう。
 
 面白い、と同時に、上手になった(?)というか、上手だなぁ、と思った。
 連載一回分の限られたページ数に、前回からの「承」が「起」となって、「起承転結」
がコンパクトにまとめられていて、さらに、「次回お楽しみに」へと自然に話が流れて
いっているところが、だ。
 
 語り手は、18か19の千春(だったか)という「少女」。なんでもこの千春は親友の
由加(だった?)に言わせてみれば、「嵐を呼ぶ男」ならぬ、、、とりあえず、男同士の
争いの元になるような「少女」なのだそうだ。
 少女に「」をつけてるのは、原作についてるわけじゃなくて、僕が勝手につけてる。と
いうのも、どう考えても40くらいの女の語りとしか思えなかったから。というか、この
5月号を初めて読んだので、それまでのことがまったくわからないままだったから。とに
かく、40くらいの女が、何故か大学に行っている、みたいな感じに思って読んでいた。
 その回は、連載十回目だった。
 以前から千春をめぐって小競り合いをしていたらしい、小平という男が相手の般若先
生とかいう男を殴った、それで殴られた般若先生は2週間か3週間くらい意識不明にな
り、意識が戻った後、小平を訴えたが、小平も般若先生がチカンをしたと訴えて
(省略)・・・
でまあ、最後、千春と般若先生がむすばれる、千春はエッチする前は般若先生は自分
にふさわしい男かも知れないと期待していたが、どうもそうではないと期待はずれに
なる、といった内容だった(ように思う。にしても、えらい不正確な記憶・・・w)
 
 で、般若先生というのは55ぐらいの男で、小平は30くらいかな・・・などと思っ
ていた。
  ところが・・・

 5月号のが面白かったので、もうすこし読みたいと、4月号を探したがなかったので、
3月号を読んだら、なんと、ぜんぜん二人とも年が違っていたのだった。
(それにしても、連載一回目から読めばいいのに、何故か、さかのぼって読もうと思っ
たのだ。そんなふうに読んだら、物語がどうなるんだろう、とべつにこの作品でなくて
もいいのに、わざわざそんなことをしようという気になった・・・)
 
 般若先生は、33歳。東京女子大学で哲学を教えている准教授。苦労人。
 小平は20くらい? 生え抜きの慶大の学生。茶道部に属している(茶道といっても、
とくに茶の湯とは関係ない)。現首相の息子。ぼんぼん。
 といったような設定だった。
 
 千春は、東京女子大学の学生で、18、19。
 本人の言うところによれば、いろいろな経験をしているので年よりも老けている、とい
うか、大人びている、ということらしいが・・・たしかに、そうといえばそうだけど・・・
 千春以外の、般若や小平も老けて感じられるのは、どうしてだろう?
 東京で生き抜くと言うことは、実年齢より内面が老けてしまうということなのだろうか?
 
 それとも、なんか意図があるのか、それとも、下手なのか?
 
 それはそうとこの千春の語りの文体。
 自分の身の回りで、自分が台風の目になって事件が起こっているというのに、なんと
も、そんな嵐に対して無関心というか。
 無関心というか、自分が元でいろいろ起こっているのに、馬耳東風、というか。
 自分を取り巻く世界とのその距離感が、なかなかいいと思った。
 事件は彼女の中を素通りしていく。ま、幼くしていろいろ経験した人というのは、こ
んなもんなんだろうか。
 と思いつつ、こんなヒロインを造形してしまう作家自身が、もう、無関心、なのかな
とも思えてくる。
 
 
 3月号は、たまたま、芥川賞を受賞した二人と島田雅彦の鼎談があった。
 冒頭あたりに、島田さんが、「審査員になってあらためて芥川賞っていうのをみてみ
ると、保守的で、作品にはある種のデジャ・ブみたいのがないと受賞できなくて、それ
が伝統」みたいなことを言っていた。
 うーん・・・あらためて見てみなくても、ずっと、芥川賞ってそうでしょう、と突っ
込みたくなるw
 だいたい、冒頭の2~3行読んだら、「ああ、あれね」って思っちゃって、で、じゃあ、
続き読みたいか、というと完全に読む気が萎えて、ぽい・・・というのが、だんなんの繰
り返し。
 小説、っていうのは、novel「新奇な物」ってことなのに・・・なんだ、また、お
なじことの繰り返しかぁ・・・と、つまんなくなる。
 っていうか・・・結局、衣装なんだよなぁ、芥川賞が言う「新しさ」って。
 小説というボディはいつも同じ。そのボディが、世間で、性同一性障害が話題になれ
ば性同一性障害の衣装、女子高生が話題になれば女子校の制服、貧困が話題になれば
貧困の衣装を、その都度着替えてるだけ。
 小説そのものは、なんにも新しくならない。
 というのが、芥川賞だと、思ってるんだけど・・・(時には、そうでないものもあるか
もしれないが)。
 しかも、オヤジが、こうだと思う、女子高生、etc、みたいな感じで(だって、『文
藝春秋』だもんなぁ)。 要するに、オヤジ好みの小説、ってことでしょ?
 
 今回も、話題性はすごい。
 美女と野獣?
 美女は文学の名門の出。野獣は今話題の貧困層、しかも中上健次の再来?(見た目
ね)
 
 貧困のことで言えば、別に今の日本に限ったことじゃない。
 というか・・・いま、日本で話題なのは、日本の貧困層が顕在化して、たくさんいて
(あるいは増加したように見えて)それが「社会問題化」しているから。
 30年前に貧困なんて、話題にならなかった。
 でも、貧困を生きている人間にしてみれば、自分が貧困という意味において、社会問
題化しようがしまいが関係ない。自分が貧困であることには変わりない。
 いまさら貧困のことを扱った小説が話題になったり、賞を取るのは、それだけのこと。
 高度経済成長下では、「人はいかに生きるべきか」ようするに「いかに出世するか、
えらくなるか」みたいなことがテーマで、貧困のことなんてそっちのけだった連中が、
いまさら、なにを寝言を言っている、という感じで・・・(笑
 昔、「一億層中流」とかいう幻想があった。
 でも、そんなことを言えた人びとは幸せだったわけだ。というのも、自分はもちろん
その中流であるし、まわりもみんな「中流」だったわけだろうから。
 むろん、彼らはそれを幻想とは思ってもいなかった。それは、彼らにとって確固とし
た現実だった。
 そんな幻想を信じていた人、そんな幻想にどっぷり浸かっていた輩、そんな連中が、
今さらながら「貧困」に気づいたに過ぎない。実は、現実ではなく幻想だったことにや
っと、気づいたに過ぎない。しかも、いっぱい貧困が現れて、ようよう・・・
 そいつらは、そんな幻想に生きていて、現実を見てなかっただけに過ぎない。
 ほんと、傲慢だ。
 
 だから、いまさら貧困なんかに注目して、えらそうなこと言ってる連中なんて、信じ
られないなぁw
(「貧困」のことを描く作家は、それが彼にとってバルト言うの「どうにもできないこ
と」なんだろうから、それが「現実」なのだろうから、そのことをとやかく言うつもり
もないけど、それに群がる連中、今まで、「一億層中流」の幻想で商売してきた連中が
今度は「貧困」で商売してるか)

 
* 小説のタイトル、「傾国少女」ではなく、「傾国子女」でした。
 「帰国子女」と「傾国の美女」をかけてる?
 本文中、「少女」のままです。 
 
2011_04
14
(Thu)23:29
 最近、耳鳴りは止んだものの、まだ、なんだか体が疲れてる感じがして、とてもじゃ
ないけど『古今』は読めないので、『新古今』なんぞを流してる。
 
 角川ソフィア文庫の『新古今和歌集』。
 他の出版社のがどんなのか知らないから比べようがないが、これは、一首ごとに現代
語訳と本歌があれば本歌、類歌があれば類歌、などなど註が詳細でとてもいい。
(岩波文庫の『新古今』は、歌だけだったような・・・)
 
 しかしねぇ・・・現代語訳は、なんか、?のもある。
 そもそも、和歌的思考を、散文的思考の文章に置き換えることが無理、という歌もあ
る。
 散文的、というのは、一連の線的な言葉の連なりにしてしまうようなものだ。
 和歌は、別々のイメージをパラレルに表現したり、あるイメージがある言葉によって
別のイメージに変容したりと、決して、直線的な訳文に直せるようなものではないもの
も多いし、そういう和歌が好きだよなぁ。
 パラレルなイメージも、線路のように平行しているものもあれば、一方が背景のよう
になっているものもあれば、いろいろだ。
 しかも、言葉であるよりも、視覚的イメージであったり、聴覚的なイメージだったり
とやはり様々。
 それを、今どきの散文にしてしまっては・・・ねぇ。。。
 
 ま、和歌の「訳」を読むときは、その歌を理解するための解説の一つ、くらいに思っ
ておいたほうがいいだろう。
 
 あと、その他こういう歌を念頭に置いているか、などで引かれている歌が、ちょっと
ちがうんじゃ?と思うこともある。
 
 でも、とにかく、この角川文庫の註はなかなかいい。
 一番いいと思うのは、本歌にしろ、類歌にしろ、その他にしろ、『新古今』以前の歌
もいっしょに読めるところだ。
 新古今の一首を読んで註を読むことで、2~3首以上、読むことになる。
 その中には、『古今』の歌がかなりある。
 ただ・・・本歌取りをしてあるのが・・・ねぇ・・・本歌を読んだら、なんか本歌の
方が良いなぁと思えるのが少なくないのが、玉に瑕かw
 ていうか、下手な歌もあれば、下手な歌詠みもいる、ということだけど。
 
 でも、『新古今』は、『新古今』で、なかなかいいのも少なくない。
 艶っぽい歌、というか。新古今調、ってそういうことか。
 読んでるとこ、ちょうど春だし。
 
 
 で、今日、いいなと思った歌、
 
    千五百番歌合に
                            皇太后宮大夫俊成女 
  風かよふ寝覚めの袖の花の香にかをる枕の春の夜の夢
 
 あはは・・・yahoo知恵袋に、口語訳お願いします、って出てるw
 ま、知恵袋のはよして、僕が読んでる角川の訳、
 
 風が吹き通う寝覚めの袖が花の香に薫り、枕も薫って、春の夜の夢から覚めたわた
しはまだ夢心地。
 
 こうやって訳にすると、余韻も余情もまったくなくなっちゃう・・・。
 
 「風かよふ」が「寝覚めの袖」にかかっている、という解釈。たしかに、一つはそ
れで良いけど、もしかすると、「春の夜の夢」にもかかってるかも知れない。という
か、そういうふうにも解釈してみるとどう?
 つまり、春の夜の夢の中に風が通い、風に乗って花の香が通い、夢の中でも花の香
がした、と。
 それで、目が覚めても、袖も枕も花の香が満ちていて、夢心地、夢のつづき、夢か
うつつかわからない陶然とした気分、だと。
 
 また、「かよふ」「かをる」という似た言葉の響き。「香」と「かをる」と同じよ
うな意味の言葉のくり返し。そして畳みかける「の」。これらによって、円環という
か、めくるめくうっとり感が出てると思わない?
 
 などなど、こういうことを訳文で感じさせてくれないと・・・と僕は思うんだけど
ね。
 そうじゃないと、訳、じゃなくて、ただの置き換えでしかない。
 だから、無理矢理訳さなくていいのに、って思うし、訳なんて解説くらいにおもっ
とこ、と思ったり。
 大切なのは、訳すこと、今の言葉に置き換えることじゃなくて、感じること、鑑賞
すること、味わうこと、楽しむこと、なのにね。。。
 
 学校の、古典教育は、間違ってるw と、そこに落ちをつけるかw 
 
 
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