2011_04
26
(Tue)23:19
 青紅葉  こなし  亀末廣  2011/4/25
 
 東北地震義援能の帰りに。
 ミニ「京のよすが」(干菓子)だけを買うつもりで行ったけど、見たら、欲しくなってしまった。。。
 
 初夏の紅葉(楓)の葉をかたどったこなし。
 たぶん、お店の方で銘はつけていないと思うので、勝手に「薫風」としてみた(買う
ときに聞かなかった)。
 「緑風」でもいいかな?
 
 写真は黄色っぽいけど、実際はもうすこし緑っぽい。
 
 
 種は、黒漉し餡。
 風味は、いつものとおりで、各要素の調和がとてもいい。
 わびていて、落ち着きがある。
 実は、風味に華のある上生が食べたくて、俵屋吉富さんへ行くつもりだったのが、思
わず、姿に魅せられて買ってしまったのだった(で、俵屋さんには行かなかった)。
 風味に、何かもうひとつ、華があるといいと感じるのは、実は埋もれている華をかぎ
当てられないだけなのか。
(干菓子の方には、風味になんとなく華を感じるのだが・・・。もともと上生は濃茶と
なのでいたづらに華やぐ必要もない? 薄茶だけだと、上生にも華が欲しくなる)
 
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2011_04
25
(Mon)21:52
東北地方太平洋沖地震でなくなられた方がたのご冥福をお祈りするとともに、復興が一日でも早くすすむよう、心から切望します。
 
 東北地方太平洋沖地震 義援能  が、京都観世会館で催された。
   プログラム 拡大してね
 
 その午前の部を観てきた。
 開演10分前たらずに到着して、一階正面に席はなかったので、二階の正面席で観
ることにした。
 開演時、驚いたことに、客席はほぼ満席。
 
 ことに印象深かったもの。
 舞囃子 絵馬
 これは、天の岩戸のあの話。
 天照大神が籠もった岩戸の前で、天鈿天命(あめのうずめのみこ)が舞を舞い、天
照が岩戸に隙間をつくってのぞき見たところ、手力雄命(たじからおのみこと)が岩
戸を押し開く、というあのあまりにも有名な場面が能になっていて、舞囃子もその場
面。
 いわば、能的な脚色による天の岩戸神話。
 そういうことをまったく知らずに、観ていて、途中からそれに気づいた。
 やはり、特に美しく、引きこまれたのは、味方玄ちゃんの舞。天鈿天命だった。
 天照大神の出だしのところがよく聞きとれず、玄ちゃんの舞を観ていて、それが女
性の舞であることに気づいて、そのあと謡が聞こえて、それで、内容がわかったとい
う次第。
 それにしても、二階正面から見てると、舞手の足の先から手指の先まで、しっかり
と見える。
 
 この舞囃子だけでも、入場料の価値はあったか。
 
 
 とはいえ、やはり圧巻は、
 半能 融 舞返
 シテは、片山九郎右衛門
 これが、お目当てだった。
 はじめ、二階正面の二列目だったが、ラッキーなことに一列目の人が帰っていき、
一列目の真正面に移ることができた!
 
 半能とは、前場省略、といった感じのもの。
 前場の冒頭、ワキが出てきて、名宣や道行きなどのさわりをしたあと、すぐに、
後場に入る。
 面、装束などは、能と同じ。
 
 ちなみに、舞囃子とは、シテ・謡・囃子で、面や装束は着けず、紋付きと袴。
 仕舞は、シテ・謡のみ。やはり、面や装束は着けず、紋付きと袴。
 
 融は、源融、百人一首にも入っている、河原左大臣のはなし。
 東六条院や河原院などに豪壮な邸宅を営み、河原院には、奥州塩竃を模した庭園
があり、その塩竃庭の水は難波から海水を毎日汲んでこさせたという。
 その融も亡くなり、庭園も荒れ果てて、そんな庭園を眺めて融を偲ぶ貫之の歌が
『古今』のなかにあるが、能の舞台もその庭園。
 例によって地方から物見遊山の僧が都にやってきて、融の霊の化身である尉につ
れられて河原庭園に行き(前場)、そこで融の霊にあう(後場)、といった感じだ。
 
 融は、面は、中将か何か、だろうか。どっか、悩ましげ(お腹が痛いようにも見
える?)だが、わかわかしさ、みずみずしさもある。
 白地に、立涌と車、そして丸い有職紋が金の摺箔の狩衣。
 浅葱(水色のような色)にやはり金の有職紋の摺箔の指貫。これは、以前、『蝉
丸』(シテ 今の幽雪師)や『千手』(シテ 当時の片山清司師 ツレ 味方玄師。
で、ツレの重衡が履いていた指貫かも)などと思いながら、観ていた。
 この装束が、とても若々しく、みずみずしく、すがすがしく、高貴で、清らか、
あでやか。
 着付けは、朱色地に錦糸の紗綾形の織り柄のはいったもの。
 
 舞返の小書きつきで、これは、舞いづくめ、というか・・・。
 舞っているうちに囃子の調子がどんどん急になって、舞もテンションが上がって
くる。
 それでも、優美。ふわふわっと舞っている感じもして、その様は、融の幽霊か、
とも。
 しかし、あくまでも、高貴で、優美で、あでやか。幽霊がおどろおどろしい、な
んて、歌舞伎以降の偏見?
 
 観ていて、前の九郎右衛門(いまの幽雪)師の『小塩』を重ねたりしていた。
 幽雪師の『小塩』の業平の舞は、陽明文庫などに伺われる江戸期の公家好みその
ものといった感じで、それがモノではなく、今目の前に息づいているということに、
ものすごく驚いた記憶がある。公家文化の本質に生で触れた気がした。観ていて、
そういう舞を愛でた公家の感性が、幽雪師の舞に照りかえって、自分の中に芽生え
る、というか、宿る、というか、そんな気までしたものだ。
 
 今回の、今の九郎右衛門師の融の舞は、ある意味、現代っぽい、という感じもし
た。そして、みずみずしい。
 幽雪師の『小塩』の業平の舞は、優美だが、枯れたところもあり、それが、業平
っぽくてよかった。どこか一筋縄でいかない、そんな歌を読む業平だから。
 融は、みずみずしい、あでやかな、貴公子の舞だった。
 
 それにしても、片山九郎右衛門(幽雪師と清司師)の真骨頂、って、翁は別とし
て、神ものでもなく、修羅ものでもなく、女ものでもなく、鬼でもなく、こういう
雅男の舞では? と思う。
 
 囃子も謡も、舞と溶けあっていて、というか、舞に囃子と謡が溶けこんでいた。
 
 また、ちょっと、笛にも注目していた。
 たまたま、藤田六郎兵衛師の藤田流の笛のCDで、融のこの部分があり、何度も
聞いていたから。
 今回笛の森田保美師は、森田流で、藤田流とはかなり違っているように聞こえた。
主旋律(?)は、大筋ではまあ、同じだけど、藤田流は力強い感じで、森田流は、
より雅で、軽やか、華やかな感じがした。
  
 
 幽雪師の仕舞は、さすがにお年なので足腰については仕方ないのかもしれないが、
腕や上半身の動きは、優美だった。
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2011_04
25
(Mon)01:05
 またまた、NHK BS プレミアムネタ。
 それにしても、前回のマノン・レスコー、いまだに検索サイトからのアクセスが。。。
 ちょっと、驚き・・・
 
 『さまよえる・・・』観終わって、なんか、足りんな。。。
 小澤さんの指揮は、こざっぱりと、上手にまとめてあるけど、なんかが足りん。
 
 観ていて、これは、ワーグナーの芸術家としての、というか、音楽家としての「自立物語」みたいに、勝手に感じた。
 つまり、ワーグナーの音楽的アイデンティティ確立ドラマ。
 
 猟師のエリックは、これは、なんかイタリア的。旋律とか、ヴェルディを思わせる。
で、パヴァロッティだったらもっといいのになぁ、なんて思ってしまった。もっとも、
パヴァは、生きていても、ワーグナーなんか歌わないだろうけど。
 オランダ人とは、ワーグナーのドイツ的音楽の部分というか。
 ゼンタは、その二人の間で、揺れ動く・・・?
 
 つまり、ワーグナーの音楽上の、内面の葛藤を象徴的にあらわした劇だと、そんな
ふうに感じてみていた。
 ワーグナーの中のイタリア音楽的なものと、ドイツ的なものとの葛藤の劇。
 
 そして、結局、ゼンタは、オランダ人を選ぶ、つまり、ワーグナーは、ドイツ的な
自己の音楽を確立する、という感じで。
 
 そんな葛藤のドラマなのだから、それが激しかろうと思うと、案外そうではなかっ
た。
 落ち着くところに落ち着いた感じで。。。
 ことに、小澤さんが予定調和的な音楽にしちゃったように感じた。
 すでに、ゼンタがオランダ人を選ぶことを前提にした音楽、というか。
 
 その音楽の中を生きていれば、たとえその結末を知っていても、次に何が起こるか
わからない、といった未知な感覚があるはず。
 小澤さんにはそれがなかった。決められた結末に向かって、ある意味用意周到に、
まっすぐにすすみ、綺麗に、こざっぱりと、着地した。
 わかっていても、それでも、次に何が起こるかわからない、というハラハラという
か、どきどきというか、とにかくわからない未来への感覚を感じさせてくれなかった。
 
 予定調和的な感じは、『オランダ人』のあとの、フランスの作曲家の曲にも感じら
れた。
 いろいろと思いも寄らないことが起きる不安定な世の中だから、こういう、予定調
和的な音楽が注目されるのかな?
 
(それとも、そもそもワーグナー自体が、予定調和的と言えば、予定調和的か?)
(ヴェルデみたいな葛藤の極限なんて、ワーグナーには無縁か、、、?)
 
 もの足りないね・・・
 
 日本の音楽教育って、なんか、テクニック面だけで、しかも、テクニック止まり、
という気がするけど、小澤さんもその壁を突き破れなかった、ってことかな?
 テクニックは当然、その上で何を表現するか、それが芸術でょう? って言いたく
なる。
 『オランダ人』の方は、歌手もオケも日本人じゃなかったから、まだ、すこし救わ
れていたかもしれない。
 ただ、フランス系の曲、多くが日本人団員のオケの方は、この大編成のオケよりも、
能のたった三人の囃子の方が、テクニックはもちろん、その上で何を表現するか、と
いうことまでも含めて、格段に優れていると感じた。
 能の囃子なんて、笛と、小鼓、大鼓、ときどき太鼓、って、それだけ。しかも、カ
タがあって、ある意味決まっている。でも、それが、オケをも圧倒するなぁ、と。
 
 NHK BS 繋がりでいうと、クライバーは、僕にとっては単調でBGMどまり
だけど、その何かはちゃんとあったよなぁ。。。
 
  
 
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2011_04
23
(Sat)20:59
 花筏 亀末廣  2011/4/16 
 
 例によって、「花筏」は銘ではなく、花筏をかたどった上生ということ。
 
 もちろん、ミズキ科のハナイカダ(葉の上に花が咲くちょっとめずらしい木)ではない。
 散った桜の花びらが連なって川に流れている様を花筏というが、これは、筏に花が
散っているタイプの意匠。
 二枚の板(竹、丸太)が互い違いになっているタイプの筏が、形成上、丸くなり、
こんな玉子のような形になったのだろう。
 
 
 種は、黒漉し餡。
 全体に、はんなりとした、落ち着いた華やかさがあり、それでいて渋い茶味があり、
深遠で、風味の各要素は過不足無く調和している。
 
 
 花びらが水に流れているタイプの花筏
 花筏 長久堂 花筏 長久堂 こなし
 
 花筏 花筏 俵屋吉富 餅
   
 その他、花筏をおもわせる・・・
 春の水 春の水 鶴屋吉信 こなし
 
 花一会 花一会 鶴屋吉信 こなし 
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2011_04
22
(Fri)22:13
 駿河屋  薯蕷  春の野
 
 今まで、ときどき食べている 総本家駿河屋さんとは、たぶん別のお店。
(総本家駿河屋さん同様、羊羹が看板商品らしいところを見ると、何か関係があるの
かもしれないが、よくわからない)。
 
 薯蕷に、土筆の焼き印。
 いま、土筆は、ちょっと季節に遅れた感じ。
 
 ただ、ちょっと面白いのは、薯蕷の生地で生の白餡が挟んであるところ。
 普通、薯蕷饅頭は餡を包んで蒸すので、どうしても中の餡は生餡ではなくて、(二度)
火が通ったものになる。
 これは、生餡。
 薯蕷の生地と生餡のコラボ、これはちょっとめずらしいかも。
 
 餡は、白漉し餡。備中白小豆の餡で、緑色に染めてある。やや、色むらがあった。
 甘すぎず、ふっくらとした、白小豆餡。それほど洗練されてはいなくて、雑味がかえ
ってふっくらした感じをかもし出していた。
 薯蕷は、もっちり。あまりきめ細かい肌ではない。
 
 風味は全体として、京都で言うところの、いわゆる「お菓子屋」(お使い物にする上
等なお菓子を扱っている店)と「おまん屋」(ふだん、普通に食べる饅頭を扱っている
店)の、間くらいの感じ。
 洗練度や上品さは、姿を見てもわかるが、「お菓子屋」の物には及ばない。
 カテゴリが「上生」しかないのでこの中に入れたが、ちょっと贅沢な素材を使った
「生菓子」といったところだ。
  
 
 薯蕷生地と生餡とのコラボと言えば、お正月に食べる、幸の曙(俵屋吉富)を思い
出す。
 さすがに、幸の曙は「お菓子屋」の迎春菓子とあって、今さらながら、その凄さに感
服。
 
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2011_04
22
(Fri)00:49
 先日、なにげに図書館で『文学界』(5月号)という「純文学」の雑誌をパラパラと、
みてたら、島田雅彦の連載があったので、なんとなく読んでみたら、なかなか面白かっ
た。
 島田雅彦、っていうと、だんなん的にはデビューした当時の三作くらいしか読んでな
くて、ロシア・フォルマリズムがどうのこうのって、いう感じだったけど、まあ、それ
も当時のモードの一端だったのだろう。
 
 面白い、と同時に、上手になった(?)というか、上手だなぁ、と思った。
 連載一回分の限られたページ数に、前回からの「承」が「起」となって、「起承転結」
がコンパクトにまとめられていて、さらに、「次回お楽しみに」へと自然に話が流れて
いっているところが、だ。
 
 語り手は、18か19の千春(だったか)という「少女」。なんでもこの千春は親友の
由加(だった?)に言わせてみれば、「嵐を呼ぶ男」ならぬ、、、とりあえず、男同士の
争いの元になるような「少女」なのだそうだ。
 少女に「」をつけてるのは、原作についてるわけじゃなくて、僕が勝手につけてる。と
いうのも、どう考えても40くらいの女の語りとしか思えなかったから。というか、この
5月号を初めて読んだので、それまでのことがまったくわからないままだったから。とに
かく、40くらいの女が、何故か大学に行っている、みたいな感じに思って読んでいた。
 その回は、連載十回目だった。
 以前から千春をめぐって小競り合いをしていたらしい、小平という男が相手の般若先
生とかいう男を殴った、それで殴られた般若先生は2週間か3週間くらい意識不明にな
り、意識が戻った後、小平を訴えたが、小平も般若先生がチカンをしたと訴えて
(省略)・・・
でまあ、最後、千春と般若先生がむすばれる、千春はエッチする前は般若先生は自分
にふさわしい男かも知れないと期待していたが、どうもそうではないと期待はずれに
なる、といった内容だった(ように思う。にしても、えらい不正確な記憶・・・w)
 
 で、般若先生というのは55ぐらいの男で、小平は30くらいかな・・・などと思っ
ていた。
  ところが・・・

 5月号のが面白かったので、もうすこし読みたいと、4月号を探したがなかったので、
3月号を読んだら、なんと、ぜんぜん二人とも年が違っていたのだった。
(それにしても、連載一回目から読めばいいのに、何故か、さかのぼって読もうと思っ
たのだ。そんなふうに読んだら、物語がどうなるんだろう、とべつにこの作品でなくて
もいいのに、わざわざそんなことをしようという気になった・・・)
 
 般若先生は、33歳。東京女子大学で哲学を教えている准教授。苦労人。
 小平は20くらい? 生え抜きの慶大の学生。茶道部に属している(茶道といっても、
とくに茶の湯とは関係ない)。現首相の息子。ぼんぼん。
 といったような設定だった。
 
 千春は、東京女子大学の学生で、18、19。
 本人の言うところによれば、いろいろな経験をしているので年よりも老けている、とい
うか、大人びている、ということらしいが・・・たしかに、そうといえばそうだけど・・・
 千春以外の、般若や小平も老けて感じられるのは、どうしてだろう?
 東京で生き抜くと言うことは、実年齢より内面が老けてしまうということなのだろうか?
 
 それとも、なんか意図があるのか、それとも、下手なのか?
 
 それはそうとこの千春の語りの文体。
 自分の身の回りで、自分が台風の目になって事件が起こっているというのに、なんと
も、そんな嵐に対して無関心というか。
 無関心というか、自分が元でいろいろ起こっているのに、馬耳東風、というか。
 自分を取り巻く世界とのその距離感が、なかなかいいと思った。
 事件は彼女の中を素通りしていく。ま、幼くしていろいろ経験した人というのは、こ
んなもんなんだろうか。
 と思いつつ、こんなヒロインを造形してしまう作家自身が、もう、無関心、なのかな
とも思えてくる。
 
 
 3月号は、たまたま、芥川賞を受賞した二人と島田雅彦の鼎談があった。
 冒頭あたりに、島田さんが、「審査員になってあらためて芥川賞っていうのをみてみ
ると、保守的で、作品にはある種のデジャ・ブみたいのがないと受賞できなくて、それ
が伝統」みたいなことを言っていた。
 うーん・・・あらためて見てみなくても、ずっと、芥川賞ってそうでしょう、と突っ
込みたくなるw
 だいたい、冒頭の2~3行読んだら、「ああ、あれね」って思っちゃって、で、じゃあ、
続き読みたいか、というと完全に読む気が萎えて、ぽい・・・というのが、だんなんの繰
り返し。
 小説、っていうのは、novel「新奇な物」ってことなのに・・・なんだ、また、お
なじことの繰り返しかぁ・・・と、つまんなくなる。
 っていうか・・・結局、衣装なんだよなぁ、芥川賞が言う「新しさ」って。
 小説というボディはいつも同じ。そのボディが、世間で、性同一性障害が話題になれ
ば性同一性障害の衣装、女子高生が話題になれば女子校の制服、貧困が話題になれば
貧困の衣装を、その都度着替えてるだけ。
 小説そのものは、なんにも新しくならない。
 というのが、芥川賞だと、思ってるんだけど・・・(時には、そうでないものもあるか
もしれないが)。
 しかも、オヤジが、こうだと思う、女子高生、etc、みたいな感じで(だって、『文
藝春秋』だもんなぁ)。 要するに、オヤジ好みの小説、ってことでしょ?
 
 今回も、話題性はすごい。
 美女と野獣?
 美女は文学の名門の出。野獣は今話題の貧困層、しかも中上健次の再来?(見た目
ね)
 
 貧困のことで言えば、別に今の日本に限ったことじゃない。
 というか・・・いま、日本で話題なのは、日本の貧困層が顕在化して、たくさんいて
(あるいは増加したように見えて)それが「社会問題化」しているから。
 30年前に貧困なんて、話題にならなかった。
 でも、貧困を生きている人間にしてみれば、自分が貧困という意味において、社会問
題化しようがしまいが関係ない。自分が貧困であることには変わりない。
 いまさら貧困のことを扱った小説が話題になったり、賞を取るのは、それだけのこと。
 高度経済成長下では、「人はいかに生きるべきか」ようするに「いかに出世するか、
えらくなるか」みたいなことがテーマで、貧困のことなんてそっちのけだった連中が、
いまさら、なにを寝言を言っている、という感じで・・・(笑
 昔、「一億層中流」とかいう幻想があった。
 でも、そんなことを言えた人びとは幸せだったわけだ。というのも、自分はもちろん
その中流であるし、まわりもみんな「中流」だったわけだろうから。
 むろん、彼らはそれを幻想とは思ってもいなかった。それは、彼らにとって確固とし
た現実だった。
 そんな幻想を信じていた人、そんな幻想にどっぷり浸かっていた輩、そんな連中が、
今さらながら「貧困」に気づいたに過ぎない。実は、現実ではなく幻想だったことにや
っと、気づいたに過ぎない。しかも、いっぱい貧困が現れて、ようよう・・・
 そいつらは、そんな幻想に生きていて、現実を見てなかっただけに過ぎない。
 ほんと、傲慢だ。
 
 だから、いまさら貧困なんかに注目して、えらそうなこと言ってる連中なんて、信じ
られないなぁw
(「貧困」のことを描く作家は、それが彼にとってバルト言うの「どうにもできないこ
と」なんだろうから、それが「現実」なのだろうから、そのことをとやかく言うつもり
もないけど、それに群がる連中、今まで、「一億層中流」の幻想で商売してきた連中が
今度は「貧困」で商売してるか)

 
* 小説のタイトル、「傾国少女」ではなく、「傾国子女」でした。
 「帰国子女」と「傾国の美女」をかけてる?
 本文中、「少女」のままです。 
 
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2011_04
21
(Thu)01:12
 いちま  京のよすが
 ひさびさにブログに登場のいちまが、何やら緊張の面持ちで大切そうにワキにか
かえているこの六角形の小箱・・・
 
 蓋を開けると・・・
 京のよすが  亀末廣  2011/4/16 
 干菓子がいっぱい。
 亀末廣さんの干菓子詰め合わせ、京のよすが。
 
 いちまにとっては、花見弁当。
 しかも、二段に詰まっている。
 
 でも、花見に行けないいちま。。。
 ので、ちょっとこんなふうに、御池煎餅とコラボして・・・

 京のよすが 2 だんなん作
 御池煎餅をおぼろ月、きんとん?みたいなのと金平糖みたいのを苔むした巌に見立
てて、月の石庭。
 
 京のよすが 3 だんなん作
 ぜんまいと散り始めた桜の花で、月の平安神宮。
(能の後、平安神宮へ花見に行ったら、花は散り始めていて、たまたまぜんまいを見つ
けたので・・・^^)
 
 でも、やっぱり、いちまはこっちか?
 京のよすが 1 奧さん作
 花より団子、月より木の芽餅。。。(あるいは、花見団子と月見餅?)
 
 春のおぼろの満月と桜とくると、能の『田村』の前場を思い出す。
 おぼろな満月の月影に浮かびあがる、清水寺の満開の桜の下で、童子の妖艶な舞。
 
 
 それはそうと、いちま、ほんとはあたらしいおべべで登場したかったのに・・・
 だんなんの耳鳴りなど体調不良で、あたらしいおべべまだ完成してない。
 順調にいけば、今頃はこのおべべで「おでかけ」できたのに。。。
 手描き友禅 いちまおべべ
 菊の袷がかなり綺麗にできたので、ちょっと奮発して、手描き友禅の訪問着の反物を
使った。
 両袖だけほぼできあがり。   
 
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2011_04
19
(Tue)22:59
 青陽  こなし  鶴屋鶴寿庵  2011/4/7
 
 青陽とは、「青」が五行説の春、「陽」は陽気が盛んな様で、春のこと。春の盛り、
ともとれる。
 それで、この上生。
 だんなんの言うところの、ハコ型。
 ハコ型といえば、まず思い出すのが、この
 
 未開紅  未開紅 亀屋良永
  
 未開紅。
 
 そして、頂上の小豆は、未開紅にも黄色いちょぼがのっているが、とくに小豆粒で連
想するのは、
 
 若松  若松 鶴屋吉信
 
 若松の、この小豆。
 これは、松の芽をかたどったもの。
 
 未開紅は、まだ開かない紅梅を、つまり、紅梅のつぼみをかたどったもので、黄色い
ちょぼは、それが芽のように開いていないことをあらわしているのだろう。
 
 色は黄緑色。
 以上のことから、この青陽は、何の木か草かはわからないが、春の盛りに芽吹く葉芽
をかたどっている。
 写真からはよくわからないが、こなしに包まれている餡は、黄色いのも葉芽そのもの。
 
 なんて、理屈っぽい説明をしなくても、一目見ればこれが、葉芽ってことは直感的に
わかるけど^^
 小豆はこれが「芽」であることをあらわす記号でもあるわけだが、しかも縦向きであ
ることで、視覚的なイメージの「芽」にも重なるところが、なんとも巧み。
 試しにこの小豆粒のないものを想像してみれば、この小豆粒がいかに重要かというこ
とがよくわかる。
(未開紅でも、頂上のちょぼがなかったら・・・)
 
 未開紅とおなじ、このハコ型で、春に芽吹く葉芽をあらわすことで、華やかさが加わ
る。
 茶巾絞りやきんとんなどでももちろんそういうものは表現できるだろうが、やがては
開くことをなによりも暗示しているこのハコ型で、葉芽を表現しているところが、とて
もいい。
 
 未開紅は、新春のまだ寒い頃に早春を先取りし、この青陽は、みずみずしい初夏を先
取りしている。 
 
 (葉芽といいつつ、アオキの花芽のようなものも連想した)
 
 
 種は、黄色く染めた白漉し餡。
 手芒と白小豆がほどよく調和していた。
 
 
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2011_04
18
(Mon)23:15
 またまた、NHK BS プレミアム ネタ。
 小澤征爾指揮、ウィーン管弦楽団で、プッチの『マノン・レスコー』をやっていた
ので、何となく、録画しながら観た。2005年のものだ。
 デ・グリュー(T)ニール・シコフ  マノン(S)バーバラ・ハーヴェマン そ
の他(のみなさんは興味ないので省略)
 
 まず、キャスティング。
 シコフは、グロベローヴァとの『椿姫』をDVDで以前観たことがある。このDV
Dも持ってる。
 テノールとしては、地味な声。輝きはない。いぶし銀、というより、鉛の声。また、
子音がはっきり発音できないのか、言葉が明瞭に聞きとれないことが多い。
 
 マノン役のソプラノさんは、初めて観るし、聞く。
 うーーん・・・容姿が・・・美輪明宏?
 ただ、オペラ歌手は容姿は二の次、とだんなんは思うのだが、それは、もちろん、
容姿を忘れさせてあまりある声と歌唱があってのこと。つまり、容姿はほどほどでも、
声と歌唱がすばらしければ、オペラ歌手はすばらしい衣装と容姿を纏うことができる
のだ。と思うのだが・・・このソプラノさんは、どうしても、美輪明宏だった。。。
 一応、マノン・レスコーは、花も恥じらう16歳の世の中をまったく知らない、か
わいこちゃんおぼこ娘。
 なのに、今回のは、現在進行形の美輪明宏。デ・グリューと財務官(元は、財務長
官)のおっさんがマノンを取りあう様は、かなり、グロい、と感じてしまった・・・
もちろん、「たで食う虫も好き好き」、人の好みに口を挟む気はない。
 ただ、プッチは、ロリだから、そういう歌手にして欲しかったものだ。
 
 さて、小澤レスコー、音楽は、プッチを感じさせてくれるよりも、ウィーンを感じ
させてくれた。
 隅から隅まで、ウィーン的。
 でも、『マノン・レスコー』なのは、幸いかも。というか、プッチを選んだのは、
むしろ、したたか。これが、ヴェルディ以前のイタリアものだったら・・・。
 プッチなら、ウィーン的でも、聞ける。
 
 今、二回目見聞きしているけど、耳が慣れたせいか、ウィーン的語法によるプッチー
ニというのが聞きとれる感じもする。
 ただ、こないだのクライバーもそうなんだけど、ドイツ系の曲、指揮者って、なんか、
BGMっぽい感じがする。とくにウィーン。聞き流すにはいいけど、真剣に向き合って
聴くには、退屈。
 (カラヤンは別)
 
 
  だけど、何より驚いたのは、まったく、プッチの意図を無視したかのような演出。
 プッチどころか、演奏している小澤ウィーンフィルまでも、時として無視してしまう、
この演出。
 
 一応、現代、なのでしょうか、時代設定。
 元は、18世紀後半が舞台。
 だんなんには、第一幕は、まるで、『ウエスト・サイド・ストーリー』に見えてし
まった。デ・グリューの衣装やその他若者達の着てる服が、50~60年代のアメリ
カのダウン・タウン。
 そこに、黒スーツ・黒サングラスは、まるで、『マトリックス』のスミスの一味が
現れたのか、とw
 財務長官は、まるで、マフィアのボス。
 マノンは・・・さっきも書いたけど、どうみても40過ぎのオバサンか現在の美輪
明宏。
 この演出家は、『マノン・レスコー』の演出がしたいのではなくて、現代社会を諷
刺したかったのでしょうか?
 
 二幕は、いきなり、バブル全盛のパリのマンション、って感じ。
 三幕は、これは、バブルの諷刺、なんですか、やっぱり。
 もとは、女囚達がアメリカに追放されるシーン。たいてい、ぼろぼろの服。ところ
が、今回は、なんともきらびやかなファッションショーかと見まがうような、女囚の
列。手錠をした、これは、新しいファッションショウの趣向かな、とも思えてしまう。
 四幕は、ニューオリンズ。もとは、人っ子一人いない、荒野。
 今回のは、人っ子一人いない、街(セットは一幕と同じ)。
 ショーウィンドウが並んでいて、シャネルだのなんだの、ブランド名の入った紙袋
が散らかっている。何故、人が、デ・グリューとマノン以外誰もいないのか? 原発
の事故でもあって、街の人びとは自主避難でもしたんだろうか?
 死の街。バブル崩壊以後の、経済が沈滞した街を象徴?
 要するに、本国からアメリカに移住して、ホームレスになった二人が街でのたれ死
にする、って感じ。
 ただ、その設定と台詞があまりにも矛盾しすぎる。
 しかも、二人の着てる物、デ・グリューは一幕から、マノンは二幕からの一張羅で、
ホームレスにしてはとても綺麗。
 これらのゆきとどかなさは、ちょっとひどすぎないか?
 50~60年代から、バブル崩壊、リーマンショック、その後の社会を象徴的に舞
台にしている、というのは、かなり買いかぶって好意的に見た見方で、実際は、そん
なこととは無関係だろう(第一幕に使われている車、とても50~60年代の物では
ないし、衣装もそのままだからだ)。
 音楽以前に、この演出、舞台設定、舞台、衣装が気になって、音楽の方はおざなり
な感じ。
 ま、どうせ、BGMなのだから、映像なしでいいか。
 もっと、お金をかけてください、ウィーン国立歌劇場さん。
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2011_04
18
(Mon)01:37
能  東方朔 片山定期能4月公演  2011/4/16
 前シテ 老人  片山九郎右衛門
 後シテ 東方朔   〃
 前ツレ 男  分林道治
 後ツレ 西王母  片山伸吾
 ワキ 漢の武帝  福王和幸
 ワキツレ 臣下  永留浩史
 ワキツレ  〃  是川正彦
 アイ  小笠原匡
 アイ  泉慎也

 笛  藤田六郎兵衛
 小鼓  曽和尚靖
 大鼓  河村大
 太鼓  前川光範

 地謡 武田邦弘  青木道喜  古橋正邦  大江信行  清沢一政
    橋本忠樹  武田大志  大江広祐

 後見 片山 幽雪  小林 慶三
 
 
 JRが強風のため一時不通になっていて、いったんは行くのをあきらめたが、ようよう
回復したのが一時間遅れ。
 開演10分前くらいに、なんとか観世会館に着いた。
 思ったより客はいなくて、正面の最後尾の右の方に席がとれた。
 最近、正面の一番後ろに席をとることが多い。お気に入り。「大名席」と勝手に呼んで
いる(笑
 
 調めがいつもと違った。
 笛が、思ったよりかすれたような、艶のない音色。
 
 ちょっと変わった能。
 はじめに、いきなり、桃仁の精のアイが出てきて口上。
 しかも、その装束が、いつもの麻のものじゃなくて、アイらしくない豪華な出で立ち。
肩衣がいちご紋のような織りのもの。着付けが、地紋が何かの唐草のような織り柄に、草
花の色紙模様のような刺繍か織りのもの。袴も絹のわた入りで、丸紋。
 
 ワキは、漢の武帝。なので、囃子が「真之来序」という皇帝などの登場の時のもの。
濃紺地に金の松竹梅摺箔の狩衣。従者が二人。オレンジがかった色で地紋に菱模様が
織り出された、やはり、松竹梅紋の狩衣。
 松竹梅の模様なのは、西王母のペットの鳥が武帝の宮殿の上を飛びまわったという
瑞兆が現れた、そういう内容なので、それを暗示しているのだろう。
 
 前シテの老翁は、非常に気品の貴い。普通の立ち姿勢より、やや腰を落としている
ような感じに見えた。
 
 中入りの、仙人も白か生成りのよれ水衣に、金地か銀地の桜か何かの小さな花の織
りか刺繍の厚板のような着付け。小豆色の袴も、絹のよう。面をつけていた。
 ただ、途中すこし台詞をど忘れしてしまったようで、鏡の間のほうから声がきこえ
た。
 シテだと、後見や謡から声が出ることがあるが、アイがこんなふうになったのを見
るのは初めて。だれが声を出したのだろう? ちょっと、ナゾ。。。
 また、片山定期能の場合、アイは、大蔵流の茂山家の時が多い。
 今回は、和泉流だった。
 東方朔の間狂言は、大蔵流と和泉流ではかなり違っているようだ。大蔵流の方は、
仙人だけど王母の桃が食べられない仙人達が出てきてひと笑いとるような狂言を演
じてくれるようだ。
 和泉流は、そういうものではなくて、仙人が一人で、西王母の桃について語って
聞かせる。
 今回は、笑いをとる方ではなかったが、その理由も後場をみればなるほど、と思
えた。
 
 後場は、今思い出しても、背筋がぞくぞくするほどすばらしかった。
 前場の尉は、実は仙人となった東方朔で、武帝に桃を献じた西王母と相舞をする。
 この相舞で、何度ぞくぞくしたことか。
 東方朔は、銀地か金地の菱模様が織り出された笹の摺箔の狩衣。茶金地に法輪かな
にか車の柄の半切。
 西王母は、緋の舞衣、様々な色の、ことに緑がよく目立つ丸っぽい柄が入っている
もので、深い春の緑の大口。つややかで、ふっくらとした品のある面。とにかく、な
んともあでやか。
 シテとツレ、というより、両ジテといった趣。
 それもそのはずで、後場のツレは、今の九郎右衛門(以前の清司)さんの従兄弟の
伸吾さん。前の九郎右衛門(今の幽雪)師の弟さんの、慶次郎師のご子息。
 残念なことに、慶次郎師は昨年の夏に胃がんで亡くなられた。慶次郎師と言えば、
今でも思い出すのは、初めて見た能『蝉丸』、『半蔀』、『恋重荷』などだが、そ
の『蝉丸』で、カタク(幽雪師)が蝉丸、慶ちゃんが逆髪と、両ジテだった。それで、
カタクと慶ちゃんの若い頃も兄弟で演じたらかくありなん、などとそんなことまで思
い浮かんだりした。
 それにしても、この相舞は、同じくらい舞の実力があって、しかも、男舞と女舞と、
同じ仕草でも微妙に違っている、そういうのを二人がしっかりと演じられないとつま
らないものになってしまうのだろうけど、、、とにかく、今回の相舞、思い出すと、
またも、背筋ぞくぞくw
 仙女と、仙人(老人っぽい)の舞。
 今の九郎右衛門師(なんだけど、うちでは、「清司くん」と呼んでる・・)の舞は
今さら言うまでもなく、その舞に勝るとも劣らない伸吾師(おなじく、伸吾くんと
呼んでる・・・)の舞。というか、むしろ、仙女が光で東方朔が影のような・・・そんな
印象さえもった。
 
 ほんと、JRが一時間遅れででも運行してくれてよかったw
 
 久しぶりに、能らしい能を堪能(舞がしっかりしてるのが、だんなんにとっての能
らしい能)。
 
 その他については、またの機会があれば。
 定期能が終わって、すこし時間があったので、といってもクレーを観に行くほどに
はなかったので、クレーを通り越して、平安神宮へ花見。
 
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2011_04
14
(Thu)23:29
 最近、耳鳴りは止んだものの、まだ、なんだか体が疲れてる感じがして、とてもじゃ
ないけど『古今』は読めないので、『新古今』なんぞを流してる。
 
 角川ソフィア文庫の『新古今和歌集』。
 他の出版社のがどんなのか知らないから比べようがないが、これは、一首ごとに現代
語訳と本歌があれば本歌、類歌があれば類歌、などなど註が詳細でとてもいい。
(岩波文庫の『新古今』は、歌だけだったような・・・)
 
 しかしねぇ・・・現代語訳は、なんか、?のもある。
 そもそも、和歌的思考を、散文的思考の文章に置き換えることが無理、という歌もあ
る。
 散文的、というのは、一連の線的な言葉の連なりにしてしまうようなものだ。
 和歌は、別々のイメージをパラレルに表現したり、あるイメージがある言葉によって
別のイメージに変容したりと、決して、直線的な訳文に直せるようなものではないもの
も多いし、そういう和歌が好きだよなぁ。
 パラレルなイメージも、線路のように平行しているものもあれば、一方が背景のよう
になっているものもあれば、いろいろだ。
 しかも、言葉であるよりも、視覚的イメージであったり、聴覚的なイメージだったり
とやはり様々。
 それを、今どきの散文にしてしまっては・・・ねぇ。。。
 
 ま、和歌の「訳」を読むときは、その歌を理解するための解説の一つ、くらいに思っ
ておいたほうがいいだろう。
 
 あと、その他こういう歌を念頭に置いているか、などで引かれている歌が、ちょっと
ちがうんじゃ?と思うこともある。
 
 でも、とにかく、この角川文庫の註はなかなかいい。
 一番いいと思うのは、本歌にしろ、類歌にしろ、その他にしろ、『新古今』以前の歌
もいっしょに読めるところだ。
 新古今の一首を読んで註を読むことで、2~3首以上、読むことになる。
 その中には、『古今』の歌がかなりある。
 ただ・・・本歌取りをしてあるのが・・・ねぇ・・・本歌を読んだら、なんか本歌の
方が良いなぁと思えるのが少なくないのが、玉に瑕かw
 ていうか、下手な歌もあれば、下手な歌詠みもいる、ということだけど。
 
 でも、『新古今』は、『新古今』で、なかなかいいのも少なくない。
 艶っぽい歌、というか。新古今調、ってそういうことか。
 読んでるとこ、ちょうど春だし。
 
 
 で、今日、いいなと思った歌、
 
    千五百番歌合に
                            皇太后宮大夫俊成女 
  風かよふ寝覚めの袖の花の香にかをる枕の春の夜の夢
 
 あはは・・・yahoo知恵袋に、口語訳お願いします、って出てるw
 ま、知恵袋のはよして、僕が読んでる角川の訳、
 
 風が吹き通う寝覚めの袖が花の香に薫り、枕も薫って、春の夜の夢から覚めたわた
しはまだ夢心地。
 
 こうやって訳にすると、余韻も余情もまったくなくなっちゃう・・・。
 
 「風かよふ」が「寝覚めの袖」にかかっている、という解釈。たしかに、一つはそ
れで良いけど、もしかすると、「春の夜の夢」にもかかってるかも知れない。という
か、そういうふうにも解釈してみるとどう?
 つまり、春の夜の夢の中に風が通い、風に乗って花の香が通い、夢の中でも花の香
がした、と。
 それで、目が覚めても、袖も枕も花の香が満ちていて、夢心地、夢のつづき、夢か
うつつかわからない陶然とした気分、だと。
 
 また、「かよふ」「かをる」という似た言葉の響き。「香」と「かをる」と同じよ
うな意味の言葉のくり返し。そして畳みかける「の」。これらによって、円環という
か、めくるめくうっとり感が出てると思わない?
 
 などなど、こういうことを訳文で感じさせてくれないと・・・と僕は思うんだけど
ね。
 そうじゃないと、訳、じゃなくて、ただの置き換えでしかない。
 だから、無理矢理訳さなくていいのに、って思うし、訳なんて解説くらいにおもっ
とこ、と思ったり。
 大切なのは、訳すこと、今の言葉に置き換えることじゃなくて、感じること、鑑賞
すること、味わうこと、楽しむこと、なのにね。。。
 
 学校の、古典教育は、間違ってるw と、そこに落ちをつけるかw 
 
 
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2011_04
14
(Thu)22:21
 ユニテルの、特別価格DVDの『ローエングリン』。
 ’82の、バイロイト祝祭劇場。
 
 このDVDはともかく、例によって、ワーグナー、ヴェルディとプッチを感じさせる。
 大筋では、『トロヴァトーレ』『ドン・カルロ』 → 『ローエングリン』 → 『トゥーラン
ドット』って流れ。
 結構、ヴェルディっぽい感じがするところも多かった。
 それはそうと、結婚式でよく使われるいわゆる「結婚行進曲」がこの楽劇の「婚礼の合唱」とは
知らなかった。。。
 
 にしても・・・
 観ていて他に思ったのは、ヴィスコンティの『ルートヴィッヒ』。
 ある役者を城に招いたとき、白鳥の舟に乗ってルーが現れるのは、まさに、この『ロー
エングリン』のまねだったんだなぁ、と。
 『ローエングリン』のなかで、ローエングリは白鳥の曳く舟に乗ってエルザの前に現れる。
 まね、というより、ルーちゃん、ずっと自分のことローエングリンだと思ってたんだ。
 いとこのオーストリア王妃エリザベートにローエングリンのことを語るところもある。
 婚約者のロシア皇女のゾフィのことを「エルザ」とも呼んでいた。
 
 つまり、ヴィスコンティにとって、ルートヴィヒ二世とは、ドン・キホーテだったのだ(笑
 『ローエングリン』のローエングリンとは、まさに、騎士そのもの。
 『ドン・キホーテ』のドン・キホーテは、騎士道をパロディ化した人物で、彼の頭の中は
騎士道物語でいっぱい。
 一方、ヴィスコンティの描くルートヴィヒも、楽劇の中の登場人物である英雄騎士ロー
エングリンにあこがれ、自らをローエングリンと同一視している。この何処が、ドン・キ
ホーテ・デ・ラ・マンチャと違っているだろうか?
 
 『ドン・キホーテ』では、最後に、キホーテは銀月の騎士との一騎打ちに敗れたことがも
とで、郷士であるアロソン・キハーナに、つまり、正気に返って死んでいく。
 一方、『ルートヴィッヒ』では、ルートヴィッヒは、精神に異常があるというので廃位さ
れ、軟禁先の城で謎の死を遂げる。つまり、「正気」には戻らずに死んでいく。
 なんとも、綺麗なシンメトリー。
 
 とにかく、セルバンテスの小説『ドン・キホーテ』(スペイン)とヴィスコンティの映画
『ルートヴィッヒ』(イタリア)がワーグナーの楽劇『ローエングリン』(ドイツ)を介し
て、一つにつながった。
 この三つの作品の円環は、なかなか興味深い^^
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2011_04
11
(Mon)00:39
 さくらきんとん  鶴屋鶴寿庵  2011/4/7
 
 はんなりとしたきんとん。
 
 白のそぼろは、つくね。
 淡い桜色は、手芒。
 濃い桜色は、白小豆のよう。
 
 種は、黒粒餡。
 しっとり、ねっとり、なめらかなそぼろは、つくねがことにクリーミー。
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2011_04
10
(Sun)03:01
 今、NHKのBSプレミアムで、カルロス・クライバーの番組をやっていて、ワイン飲み
ながら、なんとな~く聞いている。
 
 実は、あんまり好きな指揮者じゃなかった。
 というか、まったく、「あかん」と思っていた。
 それは、あの『椿姫』。バイエルン国立歌劇場の。
 そのCDの宣伝文句に、
 
 「イタリア・オペラなのに、全編「音が立ってる」という感じのスゴイ演奏で、鋭利な
フォルテ、強弱の振幅、歌手の感情表現の高揚に合わせ速度を上げていく劇的な手法な
ど、表現意欲の凄まじさには目を見張らされるばかりです。」
 
 なんてあるけど、まさにその通りで、特に、「鋭利なフォルテ、強弱の振幅、歌手の感
情表現の高揚に合わせ速度を上げていく劇的な手法」が、とても単調に感じられて、はじ
めの数小節聞いて、飽き飽きした。
 何度か聴き通そうとしたが、やっぱり、つまらなくて、結局『椿姫』は聴かずじまい。
 はっきり言って、イタリアオペラ、こういう単調なモノじゃないんだよね~、って。
 
 それで、カルロス・クライバーは、「だんなん音楽史」においてつまらん指揮者という
烙印を押されてしまったわけだが、それが、先週、たまたまBSで、クライバーの指揮の
様子を見て、なんとも面白いな~とw
 
 なんか、ちょっと、グールドっぽい?w
 
 で、まあ、ぼぉ~と見てるけど・・・
 要するに、ドイツ語なのかなぁと。
 ドイツ語の抑揚、アクセント、語法、それで、イタリアの『椿姫』やっちゃったから、
違和感、というか、「あかん」になったのかなぁと。
 そ、東京の人がむりやり関西弁話してるようなw
 
 先週、今週と、ぼちぼち聴いてて、ドイツ系の音楽だと、違和感ないもんなぁ。
 
 それで、HMVで、なんかクライバーのないか、なんて見たら、CDBOX発見!
 
 
 カルロス・クライバー/DG録音全集
 オリジナル・リマスター&お買得価格の完全限定12枚組!
 
 お買い得、という殺し文句に弱いだんなん・・・w
 ちょうど、マルチバイで4点買うと40%offなので、注文してしまった。
 
 内容は
 
 CD1
  ウィーン・フィル/ベートーヴェン第5番&第7番

 CD2
  ウィーン・フィル/ブラームス第4番

 CD3
  ウィーン・フィル/シューベルト第3番&第8番

 CD4~CD5
  バイエルン国立歌劇場/J.シュトラウス『こうもり』全曲

 CD6~CD7
  バイエルン国立歌劇場/ヴェルディ『椿姫』全曲

 CD8~10
  ワーグナー『トリスタンとイゾルデ』全曲

 CD11~12
  ウェーバー『魔弾の射手』全曲
 
 と、まあ、あかん『椿姫』入ってるけど、まあ、いいか、と。
 好み的に、ドイツ系オペラ、あんまり好きじゃない。
 モーツァルト、シュトラウス、話の内容が「下世話」。っていうか、イギリス人の下
手な下ネタのジョークみたいな気がして、しょうがないのだ。
 
 楽しみなのは、ワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』。
 最近、ワーグナーは悪くないかな~と。
 ある意味、癒し系? くたびれてるときに、ワーグナーは心地よい。
 イタリアは、もお、テンション上がりまくりになるし・・・(とくに、パヴァロッテ
ィに象徴されるああいう「声」)。
 それに、ワーグナーは、ヴェルディ、と、プッチーニの間という感じがする。
 ワーグナーを聴いてると、ヴェルディを感じさせてくれるところと、ここはプッチーニ
に影響を与えたんだろうな、というところが結構あって、イタリア・オペラから(モーツァ
ルトやシュトラウスほど)そう遠くない感じがする。

 で、4点注文した、他のは・・・というと、やっぱり・・・イタリア、だったり・・・w
 
 ベッリーニの『夢遊病の女』と『ベアトリーチェ・ディ・テンダ』とヴェルディの『リ
ゴレット』。
 やっぱり、全部、パヴァロッティがらみ・・・w
 
 ベッリーニは、『清教徒』、大好き。
 パヴァのアルトゥーロのあのアリアは、最高^^
 
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2011_04
09
(Sat)01:51
 菫 きんとん 亀末廣  2011/4/4
 
 すみれをかたどったというきんとん。
 ただし、同じ日に食べた 道明寺製 同様、これという銘をお店がつけているわけで
はない。
 そういうわけで、芭蕉の、
 
    山路来て 何やらゆかし すみれ草
 
 という句を思いついたので、「山路きて」と銘をつけてみた。
 ほんとに、なんとなく慕わしいというか、懐かしいというか、ほっとする姿のきん
とん。
 芭蕉の「山路」はともかく、春、そこらの山道を歩いていて、菫の代わりにこのき
んとんがあったら・・・ほんとに、ほっこりするなぁ。。。
 
 菫をかたどった上生というのはあまり見ないような気がするけど、僕がそう思って
いるだけ?
 
 
 種は、黒粒餡。よもぎ焼 同様の粒餡。やや柔らかめで、みずみずしく、小豆の美
味しいところ、甘みざくざく。
 そぼろは、花が大和芋。みどりのところは、手芒に抹茶で染めてあるようだ。
 手芒のさわやかさが春めいていていい。
 口溶けは、非常になめらか、独特のクリーミーさがある。やさしい感じ。やや甘め。
ただ、種の粒餡といっしょに食べると(普通いっしょに食べる)、この甘みがちょう
どよくなる。
 味付けは「淡味」だが、素材の風味は非常にしっかりしている。というか、素材の
良いところだけがぎっしり詰まっている、そんな感じがする。
 餡とそぼろの調和は、まったく絶妙で、深遠ささえ感じさせる。
 姿は一見わびているが、風味はつややかさを秘めている。あるいは、生命力を感じ
る。生き生きとした、みずみずしさ、とでもいうか。
 どっしりと、風格がある、堂々とした骨太なスタイルの風味。
 
 好みの問題はあるとしても、こういうきんとんを食べると、やっぱり、きんとんこ
そ上生の王様だと思う。
 
 
 1個 450円
 
 
 
 
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2011_04
05
(Tue)21:28
 蓬焼 亀末廣 2011/4/4
 
 よもぎ餅に芳ばしいこげ目がついている。
 
 
 種は、黒粒餡。やや柔らかめの餡。
 この粒餡にはとても感動して、驚いた。
 普通の小豆の餡の甘さは砂糖の甘さだが、この餡は、小豆にこんな甘みがあった
のか、と思わせてくれる甘み。
 砂糖の甘みではなく、小豆そのものが持っている甘み、そんな甘みだった。
 こんなふうに餡の甘みを感じるのは、初めてだ。
 やはり、ざくざくとしている、とでも言うか、小豆そのもの以上に小豆を感じさ
せる、複雑み豊かな餡。
 砂糖など「味付け」は淡味だが、素材が本来持っている風味は豊で濃厚で、力強
い。
 
 もちも、蓬にえぐみや苦みなどまったくなく、蓬の上澄みのような風味。
 ほんわりと漂ってくる蓬の香りと餡のすばらしい調和。
 
 
 
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2011_04
04
(Mon)22:21
 普段は、すっかりデパ地下の上生のお世話になっているだんなん。
 最近、ちょっとそれもなんだな~という気になってきて、ときどきは直接店に行ってみ
ようと思ようになってきた。
 
 デパ地下のもの直営店のものと、どっちが、というと、いろいろで、どっちも変わらな
いものもあれば、直営店の方が美味しいところもある。
 
 
 さて、今日は、四条烏丸へいく用事があったので、その近くの店に。
 四条大丸の東に、大極殿本舗があるが、そこはまたの機会に。
 大極殿本舗がある高倉通りを上がっていくと、亀廣永などもあるが、そこも、またの機
会に。
 
 結局、烏丸御池からちょっと入ったところ、姉小路車屋町にある・・・
 
 亀末廣

 亀末廣 さんへ。
 亀末廣さんは、デパ地下にも置いていないので、なかなか楽しみ。
 
 店舗の中は、ふるい京町家の店といった感じ。
 干菓子などのある中に、上生が5種類ほど置いてあった。
 きんとん、こなし、薯蕷、道明寺、もち。
 その中の3種類を買ってみた。
 
 
 道明寺製 
 道明寺 亀末廣 2011/4/4

 淡い桜色の道明寺に、氷餅粉。
 ちょっとわかりづらいけど、焼き印は蝶。
 道明寺の姿は、花を象徴しているのだろうか。
 氷餅粉は、花びら?
 道明寺全体で、しだれ桜を象徴的にあらわし、そこに舞う蝶?
 あるいは、春の野に遊ぶ蝶?
 などなど、いろいろと想像がふくらむ。
 
 実は、この道明寺、銘を尋ねると、「とくにつけてないんです」という答え。
 ただ、焼き印が「蝶々」というだけで、それ以上はなにも。
 
 でも、そこがまた、とても面白い、と思った。
 言い換えれば、「銘はそれぞれに、考えて、楽しんでください」ということかな、と。
 こういうところも、京都の上生の楽しさ。
 もともと姿が抽象的なので、その色目やことに銘によっていくらでも、想像がふくらむ。
 そういう楽しさを客に提供してくれるお店だと思い、その点がとてもツボにはまった。
 
 で、いろいろと銘を考えてみた。
 
 奧さんは、すなおに『野遊び』。
 素直だけど、なかなかいい銘だな、と。
 というのも、知っている『野遊び』という銘のものは、いかにも春の野に蝶が舞ってい
る、というものが多いのが、この姿に『野遊び』はなかなか面白い。
 また、『野遊び』という銘を聞いて、「なるほど」と思えるところもいい。

 ひねくれているだんなんは、例の「荘周、夢に胡蝶となる」を思って、始め『胡蝶』『荘
周』としたけど、もうひとひねり、、、それで、『春の夢』と。
 「春宵一刻値千金」なんて言葉も思い浮かぶ。
 「春眠暁を覚えず」とか。
 冬が去って、うつらうつら・・・うたたねの夢かも知れない。
 とにかく、そんな、春の(夜)の夢だ。
 この姿を見た後、『春の夢』と聞いて、「なるほど」と思える?^^ 
 
 
 種は、白漉し餡。白小豆100%だとはっきりと感じられる。
 道明寺は、粒が大きめ。あまりつぶつぶ感はなく、全体として腰のあるしっかりとした
食感。
 白餡は、純化して白小豆のよさを引き出しているというよりは、白小豆の持っているい
ろいろな風味を上手に調和させて複雑味を出している。
 「淡味に作って居りますので お早く御召上り下さい 京・亀末廣」とあるが、「淡味」
なのは、味付けがうすいのであって、素材そのものの風味は、とても力強く、しっかりと
して、濃厚。しかし、出しゃばらず、複雑で豊かな風味がはんなりと調和している。
 氷餅粉は、芳ばしくさえある。
 
 白小豆餡についていえば、今まで食べた中で、一番印象的で、美味しい餡だった。
 餡というより、白小豆そのもの以上に、白小豆、ぎっしり、ざくざくという感じ。
 
 道明寺と餡の調和も、何ともいえないほどよくて、この感じは、良い意味で、不思議
でさえある(神秘的、とは言い過ぎになるのでいわないけど・・・)。
 素材そのもののよさが突出することなく、この姿、色合いにしっくりと調和している。
 ほんとに「春の夢」のような味わいの道明寺だった。
 
 
 銘の遊びができて、風味も格別。
 一度は、どうぞ、と勧めたくなる。
 1個400円とちょっと値は張るが、値段以上の価値がある。   
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2011_04
03
(Sun)19:05
 ゆる茶 花  2011/4/3
 
 花をちょっと代えて。
 庭の水仙と・・・なんだろう?
 
 軸、茶碗、その他、前回と同じ。
 
 ただ、さすがに、菓子は・・・
 
 御池煎餅  亀屋良永  2011/4/3
 
 これ。
 亀屋良永さんの、御池煎餅(おいけせんべい)。
 22枚缶入りで、ラベルは、棟方志功に頼んだものとか。
 
 おぼろ月、って感じで。
 二枚なのは、乱視で二つに見える?(笑
 
 干菓子との取り合わせで、いろいろ楽しめそう。
 
 干菓子に限らず、たとえば、花をホトトギスにして・・・
 この御池煎餅を月と見立てると、
 
   ほととぎす なきつるかたをながむれば ただ有り明けの月ぞのこれる  
 
 なんてね(笑
(けど、御池煎餅だと満月になっちゃうなぁ・・・)
 
 写真、左が表? かどうかはわからないけど、味がついている側。
 右は、味がついていない側。
 砂糖、醤油で味がついているが、醤油辛くなく、醤油はうまみを引き出す程度。
 はんなりとした風味、ほわほわとした食感。
 抹茶によくあう。
 
 
 この季節、ほかに美味しいお菓子と言えば、笹屋伊織さんの どら焼。
 どら焼きといっても、普通のどら焼きとはちょっと違っていて、竿になっている。
 お寺の銅鑼に生地をひいて焼いたのが始まり、とか。
 このお菓子、弘法さんにちなんで、毎月、21日前後にしか売っていない。
 
 で、何故、今時かというと、輪切りにしたものをレンジでチンしてあたためると、なん
となく肌寒いこの時期に、とても美味しい。
 秋口でもなく、真冬でもなく、春先のこの時期に、何故か美味しい。
 
 笹屋伊織  どら焼
 
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