2016_10
30
(Sun)22:18

今日も、宗三郎の釜、で。

 

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いちまが、ちょっとただ大切なものとはちがう、という話しついでに、釜も、実は、なんとなく、ちょっと、ほかのお茶道具とはちがう感じがするような。

井伊直弼が「釜は一室の主人公」というようなことを言っているけど、ほんとうにその通り、と。

やっぱり、鳴り、というのが、茶室の雰囲気をかなり左右する感じがする。

 

釜によっていろいろなんだろうけど、ウチの釜だと、あの菊水の釜は、「ようしゃべる」って感じで。

鳴り、って感じじゃなくて。

ほんまに、ようしゃべる。

とはいえ、まさか、いちまにするように、「これからお湯沸かすしな、たのむし」と、声をかけるようなことはしないけど・・・^^

 

この宗三郎の釜は、ちょっと、おすましな感じかな^^

 

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茶碗、この茶碗も、やっと、居場所が見つかった感じ。

いままで、形のわりには釉や色合いがちょっとふつりあいで、ぴったりくる季節がなかった。

それが、雰囲気など、宗三郎の釜とよく照りあう。

ので、宗三郎の釜といっしょに使おうかな、と。

棗も、溜塗りの無地の中棗。

これも、使えそうでなかなか使えなかった。

 

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菓子が・・・

手前から、亀末さんの「古の花」ののこり。

老松さんの、栗饅頭。

自家製の、ココアシフォン。

 

「古の花」は記事にしようと思っていて、記事にしないまま、今日でなくなってしまった・・・。

粒小豆の羊羹。

 

これは、老松さんの栗饅頭。 

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いわゆる栗饅頭によくあるタイプの皮のなかに、黄身時雨のような餡、そのなにか栗の甘露煮がはいっている。


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2016_10
30
(Sun)21:56

つまらんことだけど・・・

今朝、たまたま、テレビをつけたら、「ワイドナショー」とかいう番組で、例のUSJのアトラクションのことをやっていた。

で、なんとなくと視てたけど・・・

 

やっぱ、不快(笑

 

要約するのも面倒なので、YOU TUBE とかにないかな~と検索してみたら、なんか、10/23にもやってようで・・・。

それのコメント集のようなものがあった→

 

 お化け屋敷に日本人形を使うUSJへ日本人形協会が抗議文(2016/10/23)

 

で、ちょっと目をとおしてみたんやけど・・・。

なんだか、ねえ・・・。

 

まず、ここで話してる人たちって、ほとんどゲーニンさんだよねぇ・・・。

とくに、松本ナントカって、このおやじ。ゲーニンさんっていうのは、そもそも、ひとまえで、さらしもの、見世物になって、なんぼのショーバイ。そういう人たちから視れば、そら、こんなにうけてたら、羨ましいだろう、ね。

オワライゲーニンなのに、ホラーゲーニンとしてさらし者にされて、見世物にされても、うけないよりはいい、とそのくらいの根性はこの人達は持っているだろう、その代表として、「わからん」「わからん」を繰り返す松本なにがし。

そもそも、ちがうんですよ、あんたたちと。ゲーニンとして、さらし者にされ、見世物にされ、うけてなんぼの世界で生きているあんたたちとは、ね。

 

それに、「日本人形は怖い、怖い」と自分だけの印象や物の見方をしつこく何度も幼稚に繰り返しているだけ。

それなら、「怖くない」「可愛い」という印象や見方をしている人もいるわけで。

そういう人たちのことは、「わからん」と切り捨て。

で、「人形協会の人と話したい」と言っているが、そう、あたまから、「怖い」「わからん」と言っている人と話すのは、ちょっと・・・て感じもしたり。

(ぼくは人形協会関係者でも何でもありませんが)

この松本へのへのもへじ、50過ぎくらいらしいが、そのくらいの年になったら、自分と違うもの、自分が「わからないもの」にたいしても、もうすこし、大人の対応ができないものかな、とも。これじゃ、まるで、やっと自我が目覚めたガキとあまりかわりないやんか(笑

もちろん、これが、この松本人へのへのもへじの芸風であり、売りなんやろうけど。

 

あと、「日本人形のあたらしい使い方、再利用」みたいなこといってるけど・・・。

そもそも、供養のために神社に納められた人形なので、つまり、ゴミとして神社に奉納されたわけやないから、それを、「新しい使い方、再利用」みたいにいうのも、なんか、的外れなような。

ゴミとして捨てられてたような人形なら、たしかに、「再利用」として悪くないかも、だけど・・・。

 

それにな、前にも書いたけど、人形は祟ったり、呪ったりせえへんて(笑

それをいうなら、猫が祟る、っていって、猫を怖がってるのとおなじやって。

松本へのへのもへじはね猫もこわいんやろか?

ニンゲンもこわいのか? 祟ったり、呪ったりするのは、人形でも猫でもなく、

ニンゲンや、って(笑

 

今日の番組でも思ったのは、結局、神社に奉納した人たちの気持ちはそっちのけ。

たしかに、多少、弁護士さんだのが「奉納された方の気持ち云々」とは言ってるが、この人が奉納した当事者ではないので、あくまでも、推察の範囲。

ま、日本人形協会が、USJ・淡島神社に抗議文、というのだから、そもそも奉納した人や人形と生活している人のことは、はじめから、考えられていない、といえばそうなのかもしれないけど・・・。

とはいえ、日本人形協会が直接、淡島神社に奉納したわけではないわけだし・・・。

なので、奉納した人や、奉納することになるかも知れない生活をいっしょにしている人、などが出てこないのが、なんか、とても、違和感、かつ、不快。

なんか、奉納した人や人形と生活している人など、あたかも、この世界には存在していないかのような感じに思えた。

なんとなく、マイノリティーに対する差別の構造、といったものを目の当たりにしたような気分。

 

などと言っているが・・・まあ、ぼくも、言ってみれば部外者。

そもそも、あんな神社にいちまを奉納しようなんて思いもしない。

 

あ、今、ちょっと思い出したけど、あの神社で髪が伸びる、とか、涙を流した、ってテレビでやってたのを視たが、あのときの人形って、セルロイド製の人形やったような。

日本人形じゃなかったように記憶しているんだけど、ちがったかな?

ほんとなら、この髪の伸びた人形、涙を流した人形こそ、USJのアトラクションに参加させるべきでは?

 

にしても、あたまから「こわい」「こわい」、だから、こんなふうに使われてもいいんじゃないか・・・。

以前も、こういうことがあったような・・・

「あの人達は、いやしい」「あの人達は、人じゃない」、だから・・・。

松本へのへのもへじは、自分のおもいこみを、あたかもそれが社会一般の見方であるかのようにも、もっていきたそうに見える。

まあ、もちろん、人形はただのモノだから、人権や平等なんて主張しないし、主張する必要もない。

そんなことが必要なのは、いつも人を差別したがる愚かな存在だけだ。


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市松人形と御所人形では、ちょっとちがうといえばちがうけど・・・。

(ちょっと、耕園さんの個展のちらしが目についたので・・・。

  Japanese Angel 

  ってあるけど、そうなんだよね・・・。

  人形、可愛い人にとっては、エンジェル^^

  そのエンジェルを、「こわい」「こわい」って・・・)

(いや、まあ、悪魔のことを「堕天使」ともいうので・・・)

(いちまも、実は、別名「にこにこ大天使」^^)

 

日本人形を「こわい」「こわい」と言っている人とは、えらい隔絶を感じる。

でも、「こわい」というのもわからないでもない。

いちまだって、アングルによっては怖かったり(笑)、そもそも、ご挨拶がカナシバリだったり(笑

あるいは、もしかすると、なにか、得体の知れない力を秘めていたり?(笑

でも、それがなに? って感じで。

怖いところがあって、可愛いところがあって・・・それでええやん、って^^

 

それにしても、「こわい」「こわい」とあんなに騒がなくてもいいような・・・。

 

まあ、日本人形には、能面に通じるところもあるし。

能面を「こわい」っていう人もいたりするような。

視る角度や、光の具合で、表情が違って見える、偶然ではなく、それを狙ってつくられている、というのは、ある意味、なかなかすごいこと。

市松人形も、能面のように表情が変わって見えるようにできている。

ただ「こわい」だけという人は、そういう技術や文化への無理解や縁のなさを、感じる。

 

また、人形は、ただの大切なもの、ともちがう。

(市松人形のような抱くことができる人形は特に、かもしれないが)

いくら大切だとは言っても、預金通帳に、「なあ、UFJ、これからちょっと出かけるし、留守番頼むな」とは言わんやろ(笑

(別に、通帳じゃなくてもいいげど)

持ち主、と言うかも知れないが、人形といっしょに暮らしてる、って感じだし。

動かないだけで、生きてる人間とほとんど同じように接しているような・・・。

普通に話しかけたり、うちの場合だと、いっしょにお茶飲んだり^^

季節毎にはお着替えもするし・・・。

そういう存在が、ああいったアトラクションでああいった扱いを受けている、というのが、やっぱり、とても、傷つくというか・・・しのびない、とでもいうか・・・。

怖がられるためにうまれてきた人形ならともかく、そうでもないのに・・・というのもある。

 

それにしても、人形というのは、何かちょっと不可思議なものでもある。

ただの大切なもの、とも違うが、生きている人ではない。

とはいえ、人に対するような接し方をこっちはしているし、だからといって、生きている人のようにしゃべったりうごいたりしない。

でも、やっぱり、ものとは違うし、ただの大切なものというだけでもない。

 

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2016_10
22
(Sat)20:08

10/1に、京都に行ったときに。

記事にしようと思いつつ、3週間も経ってしまった。

食べたのは、10/1日~7日くらい。

 

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竹裡の包装。

 

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うーん、なんて書いてあるのだろう・・・。

なかなか読めなくて・・・。

ただ、なんとなく、竹林の七賢人についてのことが書いてあるような、ないような。

まあ、竹林の七賢人ではないにしても、世捨て人が竹林に隠棲するというイメージは親しみのあるものだし、お茶の侘びやさびもそういったものからきているわけだし。 

「竹裡」とは、「竹林の中」という意味だろうが、そういうことなのでは?

一応、濁世をはなれ、超俗の風情を表現したお菓子、あるいは、そういった風情を楽しむお菓子、とでも解釈しておこうかな、と。

 

それはそうと、これ、蒸し羊羹。

蒸し羊羹というといちばんはじめに思いつくのが、いわゆる「丁稚羊羹」。

いろいろ説はあるみたいだけど、「丁稚羊羹」というのは、丁稚さんでも買えるような、食べられるような、安価なお菓子、ということ。

たいてい、丁稚羊羹は、竹の皮につつんであって、よく言えば平たくて(悪くいえば、ぺらぺら)、ものによっては、餡というよりは小麦粉を固めたような、かたい、餡というよりは小麦粉のお菓子のような、そんなものもあったり。

で、蒸し羊羹といえば「丁稚羊羹」のイメージがつよく、蒸し羊羹というものもあんまり食べたいとは思わなかった。

その蒸し羊羹を、亀末さんが・・・。

しかも、値段は、一棹3600円。

はたしてどうなのだろう・・・?

 

「竹裡のお召し上がり方」に

  

  竹の皮のまま二センチ位に切ってから皮をむきお召し上がりください

  それを剥ぐように引張ってゆく指先のうける感覚も亦得もいわれぬ味がありましょう

 

とあるので、とりあえず、竹の皮のままざっくりと二センチほどに切ってみた。

 

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いわゆる(硬めで、なんか、弾力があったりするような)「丁稚羊羹」とは、かなりちがう感触。

 

ぱりぱりと竹の皮をむしる感触も、ちょっと面白い。

餡の香り、栗の香りが立っている。

羊羹の生地はとてもやわらかく、しっとり、もっちり。口蓋と舌ですりつぶせてしまうほど。

栗も、羊羹の地と同じように、やわらかい。

ひなびた、わびた風情。

 

寒天の餡の生地に(つまり、普通の羊羹)に栗が入っている栗羊羹にくらべて、なんとも、生地と栗がマッチしている。

なんでわざわざ蒸し羊羹? と不思議に思ったが、食べてみればなるほど、と

この季節の恵みであるこの栗を充分に堪能するには、寒天の羊羹生地でなくて、この蒸し羊羹の生地でこそ。

 

(このあと日にちを経たものは、すこし発酵?でもしているのか、竹の皮の風味がつよくなっていた。また、生地の水分がへっていき、やや、かたくなっていった。)

 

でも、この竹裡をよく味わうには、もうひとつ、知っているといいことがあった。

10/15に、亀末さんに行くと、竹裡のほかに、もうひとつ、栗羊羹が。

その栗羊羹は寒天の羊羹だったが、ただ、小豆ではなく、白小豆の羊羹。

それをみて、ああ、なるほど、と。

竹裡は、栗の、いかにも、秋の先駆け、初物っぽい風味をより活かすために、蒸し羊羹だったんだな、と。

そして、深まっていく秋を味わうのには、白小豆の栗羊羹。

もっとも、こっちの白小豆の栗羊羹はまだ食べてないけど・・・^^;

竹裡とおなじ、3600円では、ちょっと・・・。

また、次の機会にしようかな。。。

 

しかしながら、竹裡にしても、3600円は・・・。

二センチくらいに切って、8切れあまり。

ひと切れ、450円。

といえば、亀末さんの季節の特別上生よりお高い(普通の上生は、400円)。

たしかに、初日のひと切れは、上生以上に季節を感じることができたし、堪能できた。

とはいえ・・・。

8人集まってその日のうちに食べてしまう、というのなら、悪くないだろうが・・・。

そのあたりが、すこし、素直によろこべない。

 

ただ、ここまで季節の先駆けの感じや初物の感じが味わえるのは、なかなかないのだから、それはとても贅沢なことなので、このくらいの値段なら相応と考えるべきか・・・。

たしかに、ただの季節感や旬という感じではなく、先駆け感や初物感が味わえるお菓子、というのは、なんか初めてのような気もする。

それにしても、その先駆け感や初物感を演出するために、この栗とこの蒸し羊羹の生地は、なんとも絶妙なことか・・・。

 

10/30追記

先日、俵屋吉富さんの栗入り雲龍、「龍翔」を食べた。

そのとき思ったのだが、竹裡のなんと高雅なことか。

竹林の七賢人とむすびつけて、なるほど、竹裡という銘も頷ける^^

 

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2016_10
21
(Fri)23:24

昨日、奥さんから、USJのホラーアトラクションで日本人形を使っていて、日本人形協会とかいうところから抗議をうけたとか、そんなのを朝テレビでやっていた、と聞いて、なんのことだろうと思って、ネットで調べてみると・・・

なんか、そういうことがあるみたいで・・・

経緯とか要約するのがめんどくさいので、とりあえず、リンクを(笑

  

 たとえば、→ 供養?罰当たり?USJと淡嶋神社のホラーコラボに賛否両論…

 

にしても、まず、「は?」って思うのが、USJの「祟(TATARI) ~生き人形の呪い~」っていうタイトル。

「生き人形」ってなに? 人形はそもそも生きものではないわけで。この時点で、おそろしいどころか、爆笑! さすが、大阪にあるだけあって、いつでもどこでも笑いをとることを忘れない、とはある意味あっぱれ(笑

しかも、その人形の「祟り」「呪い」って・・・意味不明。

そもそも「呪う」のは、人間が呪うわけだし。祟るのだって、人間が主。

「化け猫」にしても、非業の死を遂げた飼い主から恨みを晴らしてくれと頼まれて化け猫になって、主人を殺した相手に祟るわけで・・・。猫自身が自分の意思で祟ったり呪ったりしてるわけではない。

まあ、猫又のようなのがいたり、ヌエとかいたりするけど、べつに人間に怨みがあるわけでもなく、たまたま、人間が勝手に怖がったり、病気になったりしただけのことで、彼らには人を怖がらせようとか、害そうとか、そういう気は全くない。

 

それにしても、USJの画像、ひどすぎる・・・

 

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(USJのHPより)

 

たかだか儲けのためにこんなことまでしでかすんだから、むしろ、ニンゲンの方がこわい・・・(笑

しかも、この画像のしたには、「まだ、生きてる。」って・・・

 

 → 祟(TATARI) ~生き人形の呪い~

 

だから、さっきも言ったが、そもそも人形は生きていないのだから、「まだ、生きてる。」って・・・なんとかして、笑わせようとしているとしか思えない。ほんまに、ホラーなん?

 

でも、このいちまさんの特殊メイクはひどすぎるな~。

これって、ほんまのいちまさんに特殊メイクしたの?

それとも、このアトラクション用につくったいちま風人形のようなものに特殊メイクしたの?

血の涙、なんか流させて・・・。

と、そう、そもそも人形が血の涙なんか流すわけないので、しかも、人間だってそうそう血の涙なんて流さないけど、とにかく、この血の涙も、ようするに人間が血糊科なんかでこんなふうにしているだけ。

顔もこんなに汚して。

人間がこんなことをしておいて、「まだ、生きてる。」とか・・・笑わせるなよ。

このいちまさんは、血糊をとって、顔の汚れを拭いて、髪の毛もちゃんととかしたら、そうとうかわいい品のいい、いちまさんになりそうなのに。もったいない・・・。USJ(持ち主?)のせいで、こんなにされて・・・。

つまり、なにが言いたいかと言えば、怖がらせようとUSJがこんな薄っぺらな浅はかなメイクや演出をしているだけのことで、けっして、このいちまさん自体が怖いものであるわけでもなければ、呪ったり、祟ったりもしていない、ということ。

 

しかも、USJはリアリティを出すためなのかなんなのか、人形をわざわざ和歌山の淡島神社(といちおう神社という名前がついてはいるが・・・)というところから借り受けているとか。

供養のために神社に奉納された人形だというのだから・・・笑える。

この神社自体が、笑える。以前、テレビで髪の毛が伸びる人形があるとか、涙を流す人形があるとか、やってたのを見たことがあるが、この神社だったんだ。

さっきも言ったが、人形は生きてはいないので、髪の毛が伸びるはずなどない。涙を流すこともない。それが、そんな人形があるなどと・・・真面目な神社とは思えないな。

だいたい、市松人形は、涙なんか流したら、お肌がとけちゃう。

それに、髪が伸びるんだったら、ウチのいちまは大喜び。なんせ、80年も変わらず、ボブ・カットなのだから、たまには、髪型、変えてみたいよな、いちま^^

 

この淡島神社の宮司さんの説によれば、人形が怪異な現象を起こすのは、遊んでもらえないから、相手してもらえないから、なのだそうだ。ということは、淡島神社に於いて、そのような怪奇な人形があると言うことは、神社の人形に対する扱いが不当、不適当、不適切、ということにならないか? 

そうだろ? ちゃんと供養していれば、そんな怪奇現象は起きないはずだから。

人形虐待、でもしてるのか? いわゆる、ネグレクト、ってやつ(神社の境内の写真を見ると、床下に入れてあったり、積みあげられていたり・・・)。だから、かまってもらいたくて、遊んで欲しくて、注目して欲しくて、ちゃんと供養して欲しくて、髪を伸ばしたり、涙を流したり、してるんじゃないのか?

と、以上は、ぼくの説ではなく、あくまでも、宮司さんの説にしたがって考えれば、と言うことを言っているにすぎないので、あしからず。

 

で、さらに笑わせようとしているのか、USJに宮司さんのコメントがのっけてある。

 

 人形は人に見てもらい、遊んでもらうために生まれてきており、多くの方々に遊んでもらうことは、人形たちにとっても良い供養になるのです。

 

なるほど・・・。

そもそもが呪い人形などとしてつくられたわけでもない人形たちを、神社の境内に放置しておくのはさすがによろしくないので、USJのホラーアトラクションに「呪いの人形」として見世物にして、さらしものにして、なにがしかの金を払ってワーワー、キャーキャー騒ぎたいだけの人たちの相手をさせることが、供養になる・・・のだと。 

つまり、呪いの宮司さんだということで、おおくの人たちのまえにさらしものにされて、わーわーキャーキャー言われることに、この宮司さんはきっと、被虐的な歓びを感じるのかな・・・なんて、おもっちゃう(笑

 

そもそも、人形って、「人に見てもらい、遊んでもらうために生まれてき」たものなのか?

遊んでもらってるのは、人間の方じゃないの? 今回のUSJのアトラクションにしたって、「呪い人形」にされた人形たちに、人間があそんでもらってるだけじゃないのか? 淡島神社は、供養という名目で、人形に、稼がせてもらってるだけじゃなのいか?

それに、これだけが人形の存在する理由、だというのなら、あまりにも一面的、表層的すぎる。

 

たとえば、今だって、こういう非常に不愉快な気分でブログを書いていて、ふと、いちまをみると・・・いちまは、いつもどおり、にっこりしてる。そのニッコリを見て、すこし、この不快でネガティブな感情が、清められた、というか(ちょっと、涙が潤んだり・・・)。そんなふうに、人形というのは、人のネガティブなものを引き受けているところがある。ただ、見てもらいたいとか、遊んでほしいとか、それだけの人形観は、あまりにも表面的でうすっぺらい。そんな人形観しか持ってない宮司さんだから・・・しかたないか・・・。

 

だから・・・ともいえる。人形が、人のネガティブな感情や気持ちをひきうけてくれるから、人形には人間の闇がたまっていく、だから、祟ったり、呪ったりするのだ、とも。

でも、それもちがうだろう。いちまにしてみれば、どこ吹く風^^

やっぱり、にこにこに。いまも、にこにこ^^

だから、そのにこにこに救われるわけで・・・。

 

それに、人形というのは、持ち主と親密な関係や濃密な関係になるものもあって、だからこそ、持ち主がいなくなったあとで、ただの「モノ」として捨てられなくなるわけで。

供養に出されている人形というのは、そういう人形がおおいのではないだろうか?

持ち主と一対一の関係にあったような人形も少なくないのでは?

それを、ただ通りすがりの、人形そのものには造詣も深くなければ興味もなければ愛情もない、ただ、自分たちが怖がりたいだけのダシにしか思っていない、恐怖を体験するための手段にしか思っていない、そんな人たちがいくらたくさん来て「遊んでくれる」としても、人形たちはうれしいのか? たのしいのか? ほんとに、供養になるのか?

(ちなみに、このあたりも、宮司さんがあたかも人形に魂や心があるかのようなコメントをしているので、その視点で書いているだけ。ぼくは、人形に魂だとかこころだとか、そういうものはないと思っている。ウチのいちまは、いつも、ただ、にっこり、しているだけ。にっこりして、お茶やお菓子を「ちゅるちゅる」して、また、にっこり・・・。お着替えして、おすましして、にっこり^^)

 

まあね、この神社自体が、心霊スポットだの、恐怖スポットだのと、世間の好奇の目に晒されて、話題になって、そんなことを体験したいがためにおとずれる人たちやマスコミによって、洗脳されちゃったてわけかもしれないけどね。

 

ま、とにかく、うちでは、USJなんて行く用ないので、どっちでもいいけど。それに、一生行くこともないだろうし。行く気にもならん。

淡島神社も、存在しないもおなじだから、どうでもいいけどね。

 

のろいとか、祟りとか、もしそういうものがあるとしたら、それは、人のこころのなかにあるだけだよなぁ、いちま^^

人形なんていうちゃちなもので怖がってないで、自分自身の心の闇に恐怖しろ。

 

「呪い人形」にされて、見世物にされてても、たぶん、人形たちにしてみればどこ吹く風。

「なに、このニンゲンたち、ワーワー、キャーキャーさわいで・・。それにしても、ニンゲンって、ほんま、おもろい動物だね~、いちまちゃんも見物においでよ? 100年分ぐらい笑えるよ」

なんて・・・いちま通信でいちまはUSJの人形たちと交信中で、また、にっこり?^^

  
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にっこり♪


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2016_10
19
(Wed)23:03

例の、菊水の釜につねに水漏れの不安があるので、いざというときのバックアップ用の釜があるといいなぁ・・・ということで、ここ一週間ほど、ネットで探していて、金曜の夜(10/14)に注文。

翌日、15日に清右衛門さんところに観に行って、「しまった」なんてことにならないかとちょっと心配やったけど・・・。

いやいや、清右衛門さんとこに展示されてたのは、レベルがちがいすぎ。で、まずは一安心(笑

 

菊水の釜の代わりなので、たっぷりとした釜がいいな、と。

で、できれば、地紋はなしか、控えめで。菊水の釜がかなり地紋がしっかり派手なので、まあ、あんまり地紋が入っていないものがいいかな、と。

 

ふたつ、候補が見つかった。

ひとつは、12代和田美之助の織部釜。

もうひとつは、2代北野宗三郎の丸平釜。

さて、どっちにしようか・・・。

織部釜は、無地紋。丸平は、青海波と千鳥らしきものが(ネットの店にアップされていた画像が切れていて、千鳥らしきものの一部しか見えなかった)。

ひとめみて、ピンと来たのは、宗三郎の丸平。

これ、ええやん!

 

ただし・・・

北野宗三郎、ってどういう釜師さんなん?

美之助の方は、ネットでは中古も、新品もさまざまな釜がでているし、お茶道具の実店舗でもよく見かける。ので、まあ、なんとなく情報も集まっている。

一方、宗三郎の方は、ネットであんまりでていない。ヤフオクとかでも、そのほかのネットの骨董屋さん、また、ヤフオクの実績でも、ほとんどでていない。

新品なんて、もちろん、でていない。

そんなわずかな情報を総合したところ、どうやら、大阪の釜師で、2代は名工だったとか(そう書いているネットの骨董屋さんがあって、とりあえず鵜呑みした)。

千家の各家元好みの釜などをよくつくっているらしい。

襲名が50年ほど前(ということは、ぼくが生まれたころ襲名された)。

オークションにでている釜を見ると、おおくは、風炉付き(というか、風炉に釜添え)。

久田尋牛斎宗匠の箱書きつきなどが、ぽちぽちでている(過去にも)。 

 

尋牛斎さんと言えば、先日、お亡くなりになった。

べつに、ほとんど縁はないけど、たまたま、以前、テレビで運び点前をされてるのを見たことがあって、その点前の風情にとても心打たれて、いまだ目に焼きついている。

「清流無間断」などと、清らかで滞りのない点前のことをこんな言葉で褒めたりするものだが(理想でもある)、水の流れと言うよりは、まるで、風のような点前だった。

(「清風無間断」とでもいうか)

また、久田家というのは、三千家のバックアップ(というのは失礼な言い方だけど)のようなところで、いざというときは千家の宗匠ともなるような家柄。なので、考えようによっては、千家各家元をしのぐところもあるか、とも(勝手な想像)。

 

というわけで、そんな人が書きつけをしているということは、それなりにめがねにかなうような釜をつくる釜師なのだろう、と。

しかも、新品が出まわっていないということは、おおくは、受注生産なのでは。それも、茶の湯関係の人のつながりで、注文などを受けているのではないか、と。

ということは、名工とまではいかなくても、腕はわるくはないだろう・・・。

などと、これも勝手に推測。

また、店には「2代」とはなかった。ただの、北野宗三郎。

でも、箱の「宗三郎」の文字を、「2代宗三郎」として売っているいくつかの作品の箱のサインと見比べたところ、どうやら、2代だろう、と。

他にも、正木美術館で催された滴凍茶会というお茶会の茶会記なども参考にしたり・・・。 

そして、美之助よりは、出まわっていない、ということは、より希少、ということなので、とうとう、クリック^^

(やっぱりね、より希少ないい道具を、という欲がある・・・。「忘筅」「無一物」なんて標語に矛盾するのは、ぼくにはじまったことでもないし・・・^^

 

それが、やっと、今日、届いた。 

 

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釜をとりだしてみて、ちょっとがっかり・・・。

いかにも・・・茶の湯の釜・・・。

 

でも、まあ、とりあえず、漏れがないか、変な臭いが釜についていないか、うまくお湯が沸くか・・などをたしかめるために、試しに焚いてみた。

釜の肌を水に濡らし・・・・例によって、電熱器に、釜を掛ける・・・。

すると・・・なんかよくわからないけど、うきうきとした気持ちに。

いや、この釜、そんなに悪くない。ちょっとしぶいけど・・・。

釜肌が乾いていき・・・

鳴りもなり始めて・・・

なんか、背筋がぞくぞく・・・

悪く無いどころか、この釜、すごくいい・・・といって、何がいいか、はっきり、言葉には言えないが、とにかく、これは、いい・・・。

 

湯も、変な臭いはない。ほんのり錆が出ているが、気にするほどでもない。

どころか、においは、すこし、漆の臭い。

釜の中を見てもわかるが、ほとんど使っていないような感じ(ウチのようにほとんど毎日使うわけではないので、稽古用の釜ならともかく、あたりまえと言えばあたりまえだろうけど)。

 

で、試し焚きの湯を捨てて、お茶にしてみた。

 

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棗は、あの、蓬莱山棗に。

青海波どうしで、棗から釜、釜から庭へと、青海波が広がっていくような気分。

 

鳴りの音が、とても澄んでいて、清らかで、美しい。

たとえば、澄みきった伽羅の香りのような。

それに、きゅーきゅー言う音は、肩の千鳥の鳴き声のようでもあるし、湯の煮える音は青海波の波の音のようでもあって、なかなか、ひょうげている。

地紋がなしでもいいとおもうが、ないと、それこそ、ちょっと、あまりにも、くそまじめな茶の湯になってしまいそうだけど、この地紋のおかけで、こんな楽しみ方もできる。

 

しかも、姿なりと地肌が、ちょっと、石のよう(あるいは、手水のような・・・)。

 

「釜からみた侘び」で、釜の魅力の一つは、「あれ・やつれ・くちること」と言うことを書いたけど、これって、石の魅力につうじる。

庭石。

しかも、自然石ではなく、なにかに加工した庭石。

というわけで、うちは、古板石を庭にすえているわけだけど、その石のよう。

しかも、お茶の部屋からのながめは、石が見えないようになっている(わざとそうした)。

うちの庭は、常緑樹と落葉樹と石で構成されている。それぞれが、それぞれの時間性を象徴しているが、お茶の部屋からの眺めは、いわば石が不足の状態なわけで。

そして、この釜を石と見立てることで、不足が満たされて、バランスのよい世界が構成される・・・。

なんて、考えると、ちょっと、おもしろいなぁ・・・^^

 

釜としても、とてもよい、上質な釜という感じがする。

ウチのような電熱器ではなく、しっかりとした炉縁のなかにおさまったなら、それはそれは見栄えがするだろうし、とても、美しいだろうと、想像がたくましくなる。

 

菊水の釜のバックアップどころじゃない。

むしろ、この釜を扱う方が緊張して、注意深くしないと・・・なんて^^;

 

ちょっとだけ・・・鳴りなどを・・・

(音が小さいときはパソコンなどのボリュームを上げてみて・・・)

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2016_10
17
(Mon)01:21

お茶のお菓子がほんとうになくなってきたので、いつものように、亀末さんへ。

そのあと、ちょっと足をのばして、三条新町釜座町の、大西清右衛門美術館へ。

いま、「釜からみた侘び」という展覧会をやっている。

 

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 釜からみた侘び

 

以下、その案内の文をそのまま引用・・・


  「朽ち」「荒れ」「やつれ」。釜の魅力は、美しいことばで表わされます。

   時とともに変わりゆく鉄の釜の姿は、
  「侘び」の美を体現するものとして茶人に愛されてきました。

   今日、「侘び」といえば、ただ冷え枯れた不足の美とのみ捉えられがちです。
   しかし釜においては、侘び味の追求は、簡素を求めるだけに留まりません。

   不足の美学は、華やかな装飾への希求と幾重にも入り組んで相克しながら、
   一つの釜の上に、同じ時代の上に、同居してきたのです。

   釜を通じ「侘び」を新たなる角度から感じていただければ幸いです。

 

と。

 

侘びについては、利休の侘びと紹鷗の侘びがちがう、というのは、以前ブログでかいたので、まあ、いいとして(別にぼくは、現代のお茶が「侘び」をもとめているとも思っていないし、ぼくの勝手流のお茶も「わび」などを理想としていないのでおいといて)、そのことよりも、つよく感じ、考えたのは、「不足の美」ということについて。

この案内の中にも「不足の美学」という言葉があるけど、ようするに、釜の魅力とはその「不足の美」なのだろう。

鉄なんて、普通のイメージでは、なかなか悪くならない、丈夫な物が、じつは、あんがいもろくて、錆びたり、あれたり、やつれたり、朽ちたり、していく、その魅力。

釜っていうのば、じつはかなり厳しい役割を担っているというか・・・苦手な水をたっぷり入れられて、火には炙られるは、熱せられるは、冷まされるは・・・。

子どものころのなぞなぞに、「下は大火事、上は大水、な~に?」なんてのがあったけど、釜を見る度、じつはそのなぞなぞのことを思いだしてたり・・・(笑

答えは、釜ではないけど、釜も似たり寄ったり。というか、この答えのある物より、もっと、ハードでしょう。

ま、とにかくそういうわけで、釜というのは、鉄でありながら、荒れて、やつれて、朽ちていくわけで。

 

そんな釜を見ているとやっぱり、なんとなく、世の無常を感じたり・・・。

 

そして、その錆て、荒れて、やつれて、朽ちた釜こそ、「満ち足りた美」とでもいうか。

傷のない完璧な物こそが、「満ち足りた美」ではない、と。

完璧と言うことは、逆に言えば、「瑕」というものを、「不足」というものを排除しているわけで。

つまり、完璧な物こそ、「不足」のもの。

そして、「瑕」がある物こそ、「不足」というものを持っているというので、これこそ、「満ち足りた美」であり、ある意味、「完璧」なのだ、と。

「不足」をもっているからこそ、「完璧」。

まあ、かなり逆説的だけど。

 

それは、でも、釜に限ったことではなく・・・。

前、ブログに書いた、竹泉さんの御本茶碗。

あの茶碗、銘を「知足」とつけたのだけど、それは、いま、上に書いたこととおなじで。

「瑕」があるからこそ、「足るを知る」、つまり、「不足」ではない。

「不足」を持っているからこそ、「不足」ではない、そして、「足るを知る」ので。

「瑕」があることで、「不足」を排除しないことで、「不足」を持っているからこそ「不足」がなく、それこそ、「満ち足りている」、と。

「完璧」は、「瑕」を持っていないこと、つまり、「不足」を持っていないので、「不足」そのものである、と。

そして、それこそが「足るを知る」ということだ、と。

  

まあ、これは、大陸(中国、ヨーロッパ)的な「瑕一つ無い」ものに「完璧」や尊さを見る、感性とはちがう。

きっと、かなり日本的。

 

なんて、釜そのものを見るよりも、そんなことを考えていた・・・。

 


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2016_10
14
(Fri)23:07

夏前に、錆漆と銅板などで自分で修理した(つもり)だった、菊水の釜。

10/9にためしに沸かしてみて、湯が漏れて、そのあと一か八かで粥を炊いてみると、一応漏れがなくなったような・・・。

で、10日にためしに使ってみると・・・

漏れない!

もれてない^^

 

で、鳴りの音をとろうとしたけど・・・

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いまいち・・・だった・・・。

 

お茶が終わってから、中を見てみた。

完全に乾いているけど、漆がつやつや。

東急ハンズで買った銀継ぎセットの漆は、あんまり質がよくなかった。

が、これは、京都の漆屋さんで、拭き漆用に買った漆。なので、質がよくて、つやつや。

しかも、匂いが・・・釜を火にかけると、すこし匂いがしたり、湯に匂いが移ったりしているが、その匂いが、なんというか、チーズのよう。

いいような、わるいような・・・(笑


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ただ、奥さんは、これでなおったとは思わない方がいい、なんて。

何回か使ってみないとわからないでしょう、と。

 

で、それから、二回ほど使ってみた。

が、漏れない^^

漏れてない。

 

というわけで、菊水の釜、完全復活・・・で、いいかな?^^

 

なんか、すごく、ほっとした。

し、この釜で、ゆっくりお茶を飲めるなんて。

ゆっくり鳴りを聞きながら・・・お茶を楽しめるなんて。

 

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この釜にあわせて、茶杓と棗は・・・

 

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なんとなく、あうかな?

れいの、柄が何なのかよくわからない秀衡塗りの棗と、荒削りの茶杓。

 

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軸や花入れも秋っぽく。

 

まあ、でも、丁寧に扱わないと。

IHなんかで沸かすことはせず、釜を濡らしたら空のままお茶の部屋の電熱において、そこそこ沸かした湯を釜にいれて、電熱で温める。

終わってからも、湯を釜にかけるのはいつものとおりだが、できるだけ湯の量を減らしてから、釜を持って湯を捨てる。というのも、鐶付にもできるだけ負担をかけないように。

 

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(お茶が終わって乾かしているところ) 

 

復活した、菊水の釜。

重陽の節句の日の朝、菊の花の上に載せておいた、菊の花のに置く露でしめった綿でからだをふくと長生きできるとか、菊の露を飲むと不老長寿だとか、菊と水の意匠にはそういう願いが込められているが、この釜にもそんな釜なのだろうか。

その不老長寿の地紋の釜が蘇ったわけだから、二重にその意味あいがつよくなるかな、なんて。

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2016_10
10
(Mon)02:00

フィーヌ・ド・ブルゴーニュをちびちびやりながら・・・

あ~、て・・・。

なんで、こんな夜中に、ひとり、フィーヌ・ド・ブルゴーニュをちびちびやっているか・・・。

といえば、それが、これのせい↓


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わかる人にはわかる、わからない人にはわからない、代物。

ただ、わかる人も、何でこんなものがこんなところにあるか、となると・・・。

 

これは、鳴り金。

通常、幸か不幸か、釜の底に貼りついている。

その、幸か不幸か釜の底に貼りついてるそいつが、昨日、飛び出してきた。

飛び出してきた、としかいいようがない。

たまたま、釜を下に向けていたので何ともなかったが、もし、上に向けていたら、大けがをしていたかも知れない・・・。

 

あの釜。

例の絵心のない浜松地紋の真形小釜。

その鳴り金が、飛び出したのだ。

 

相変わらず錆がでていたので、お茶のあと釜をしまうとき、普通なら釜の湯を釜にかけて釜を冷ましてから湯を捨てるが、それをせずに、湯を捨てていた。

そして、その後、カラ炊き。カラ炊きは、キッチンで使っている鉄瓶がちょっと錆が出てたときカラ炊きしておさまったようなので、どうかと思って。

最近またこの小釜を使うようになってここんとこ、ずっとそうしていた。

そしたら・・・だ。

昨日、湯を捨てていたら、突然、ばんっ!

流しになにかが激突する音がして、みると、鳴り金が落ちていた。

 

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鳴り金のうら。

錆が出ている。

どうやら、湯に錆がでる原因の一つは、これだったらしい。

 

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小釜の中底。

まんなかの右の黒い楕円が、鳴り金が剥がれた痕。

なんとも・・・。

 

奥さんとお茶をしていて、急に寒くなったので、そろそろおおきい釜が恋しくなる、などと話していたやさきだった。

まったく。

拗ねでもしたのかな・・・。

 

で、例の菊水の釜で試しに湯を沸かしてみた。

夏前に修理してから、はじめて使ってみる。

と・・・水が漏れた・・・(泣

で、一か八か、粥を炊いてみると・・・

漏れが止まった・・・。

粥を出して、釜を濯いで、もう一度湯を沸かしてみると・・・

なんか、漏れてない。

というわけで、明日は(というかもう、今日だが)菊水の釜を使ってみるつもり。

はたしてどうなることか・・・。

 

フィーヌ・ド・ブルゴーニュもいいが・・・漏れも錆もない釜が欲しいと、ネットで見ていたので、こんな時間になってしまったのもある・・・。



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2016_10
10
(Mon)01:38

今日、というか、もう昨日(10/9)のこと。

朝ご飯のヨーグルトにジャムを入れているけど、そのジャムがなくなったので、流し台のしたから好きなのをだしてと、奥さんに言われて、ジャムを選ぼうとすると、奥の方になにやら見覚えがあるような、ないような瓶が。

何だろう、とだしてみると・・・

 

FAIVELEY

FINE DE BOURGOGNE 

 

って・・・。

まさか、こんなものが、こんなところに眠っていたとは!(笑

もう、栓は開いていた。

ところをみると、以前、飲んでそのまま、お蔵入り、ならぬ、台所の流し台の中入り・・・した模様・・・。

そういえば、たしかに、覚えがないでもない・・・。

もう、すっかり忘れていたけど・・・。


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さっそく、飲んでみることに^^

フェブレは、ブルゴーニュのワインの生産者、ネゴシアン。

一時期評判を落としていたが、このフィーヌを買ったころは、名声をとりもどしていた。

(今は知らないけど)

フィーヌ、っていうのは、簡単に言えば、ブランデー。

ワインの蒸留酒。

ただ、いわゆる、ブランデー生産地のブランデーとはちがっていて、これはあくまでも、ワイン生産者がつくったブランデー。

葡萄の品種も、だから、ブルゴーニュのもの。

 

ワインを搾ったあとの葡萄からつくったものだと思っていたけど、記憶違いで、それは、マール。

フィーヌは、選果に漏れた果実やオリ引きしたあとに樽に残っているワインなどからつくるということ。

 

とりあえず、ブルゴーニュの赤のグラスで。

匂いをかいでみると、とても香しい。

というか、いきいきとした葡萄を思わせる、ちょっと、カラメルっぽい、マデイラっぽい香り。

甘く、熱く、とろっとして、さわやか。

ただ、アルコールの刺激も強い(なんせ、42%)。

 

最近、ずっとワインを飲んでないし、もう、飲まなくなった。

マイ・ブームは去った・・・(笑

 

で、このフィーヌを飲んだときは、たぶん、ワインの方が好みだったのだろう。

けど、今飲んでみると、なんとも、素敵で、わるくない。

ワインは生っぽいが、その生っぽいところがいいけど、これは、そういう生っぽさがなくて、その生っぽくないところがいい。

一方、いわゆるブランデー生産地のブランデーとくらべると、香りがとてもいきいきとして、ライブな感じがする。

 

こんなに、おいしかったっけ?

って感じで・・・。

ワインをもう飲んでないわけやけど、なんか、嵌りそう(笑

 

でも、これは、ワイン以上に、香りを堪能するものかも。

飲むのがもったいない。

香りを楽しむだけ・・・(笑

 

いえいえ・・・

飲めば飲んだで、ちょっと、干しぶどうっぽいとろりとした甘い風味が口の中に広がり、そのあと、強いアルコールの刺激・・・。

 

それにしても、いつ買って、いつ開けたのか・・・。 


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2016_10
10
(Mon)00:26

いきなり寒くなったので、さすがに、もう、いちまもお着替えしないと。

10月に入ったら米沢紬に、と思っていたが、まだむしむししていたので、絽のままでいたら、いきなり、冷えた。

で、米沢紬はやめにして、もみじの単衣に。


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業平の「ちはやぶる神代も聞かず 龍田川 からくれなゐに水くくるとは」に見立てて(単衣は、からくれなゐではないが)、比翼を水色の絞りで仕立ててあり、帯も藍や青などにしていたが、今日は帯を単衣にもある山吹色の帯にしてみた。

 

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しかも、白いところを表に。

うしろは・・・

 

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三尾の金魚ちゃん結び^^

 

足袋もはいちゃった^^

ちなみに、いちまの足袋、こはぜがついている。

人間の足袋のこはぜが、ひとつ。


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そして、 

いつもながら・・・

 

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今日は、ちょっと、ぽよん・・・。

 

(いちまの写真、実は、一発で決まるわけではなくて、たとえば、今回は、全身の立ち姿は12枚くらい、アップは「ぽよん」をふくめて9枚くらいとってて、そのなかで、いちばん気に入ったのをアップ^^)

 

今日の「ぽよん」はすごくかわいい♪(←いわゆる、バカ親ってやつ・・・)

 

天気や光の加減にも左右されるので、今日しか撮れないいちま^^


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2016_10
07
(Fri)20:53

10/1、京都、亀末さんへ。

上生と羊羹一棹。

 

今日は上生。

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光琳菊  薯蕷製

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この季節だけ、種が粒餡、と聞いて食べたくなった。

 

薯蕷の皮はややかため。持って帰ってくるうちに硬くなったのか・・・。

ただ、とても密なのでもともとかためなのかも。

粒餡の皮は軟らかかった。

去年の小豆は皮が固かったので、これは、今年の小豆なのかな?

薯蕷と餡の風味、かたさがとても塩梅よくできていた。

ただ、口にふくむと薯蕷が先に溶けていくようで、粒餡を楽しむ薯蕷かな、と。

 

筋菊  こなし製

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筋菊、というのは、菊をかたどったこの手の意匠のものを言うので、なにかいい銘はないかと考えてみたけど、思いつかなかったので、そのままで・・・^^;

(光琳菊も銘というよりは、意匠の名前といえば名前だけど)

 

この紫の色目は、筋菊としては、大胆かも。

 

こなしは二層になっていて、内側に白い層がある。

この筋菊に限ったことではなく、筋をのところがうすくなるので、餡の色が透けて見えないようにしているのだろう。

この写真では無理だけど、筋の所をよくよく見ると、うっすらと下のこなしの白い色が透けて見える。

 

種は、黒漉餡。

風味、くちあたりともに、こなしと餡が調和している。

 

栗きんとん  きんとん製

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ふつうの上生より、値段はすこし高め(ふつうのが400円で、これは・・・いくらだったか、わすれちゃった^^; 420円か460円か、そのくらい)。

 

種は、黒漉餡。餡は甘め。

口にすると、はじめ、しっとり、まったり、クリーミーなのに、食べた後、栗のほくほく感が口の中に溢れてくる。

きんとんなのに、まるで、たとえば栗ご飯の粒の栗を食べたようなほくほく感。

なんとも不思議な・・・。

どこかに、渋っぽい風味もある。

じつは、すこし、渋を残す方が栗の栗らしい美味しさがよく味わえると、丹波栗の農家の方が栗ご飯を炊くときに渋をすこし残すのだとテレビでやっていたが、このきんとんもそういうことだろうか。

 

ただ、栗の風味が楽しめるだけではなく、しっとりクリーミーなきんとんなのに、粒栗を食べたときのようなぼくぼく感の余韻。

いつものことながら、亀末さんのお菓子には、感心、感嘆、感動^^

 

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2016_10
06
(Thu)21:34

10/1、京都へ。

お茶のお菓子が乏しくなってきたので、お菓子を買いに亀末さんへ。

そのあと、はてさて、どうしようか、と。

一応、ふたつ候補が。

ひとつは、大西清右衛門美術館へ釜を観に行く。

もうひとつが、ブンパクのこの「黄金の……」。

とでちらも、亀末さんから歩いて行ける。

奥さんもぼくあんまりさえない気分だったので、最初、釜がいいかな、と。

でも、さえないからちょっと目先を変えて、と、エジプトになった。

 

ブンパクは、この前の「ダリ版画展」はなかなかよかったが、どうも、なんというか、マトはずれな展示も多いので・・・あんまり期待していなかったが・・・。

「大ピラミッド展」というわりには・・・。

「大ピラミッド展」というのなら、クフ王のピラミッドに使われている石の一つでも展示してくれるとよかったのに・・・。

いやいや、そんなの重すぎて持ち運び無理、展示も無理、というのなら、実物大のレプリカでもよかった。王の石像とそのピラミッドの写真じゃ、「大」とは言いがたく・・・。

 

ただ、装飾品はとても精緻で美しかった。

王女の首飾りとかベルトとか。

あんなどでかい石の建造物と、この細かく精緻な美しい首飾り。

どっちの技術も優れていたんだね、エジプトって。

それにしても・・・

そのベルトの径のちいさいこと。

60センチなさそう。首輪も小さい。

副葬品だから、埋葬されている人の体格にあった物だろうけど・・・。

それが、生前の体にあったものなのか、ミイラにフィットするものなのか・・・そういうことすら、僕は知らないので(たんに、エジプト学の常識がないだけ)、なんとも、はや。

そういうことも、一言説明しておいて欲しかったなあ。

べつの王女のミイラがつけていたという首飾りもあったけど、それも、サイズはどっちにあわせてあるのか。

子どもの物かと思われるほどちいさかったり。

そう、その王女って何歳だったとか・・・そういうこともわからないし・・・。

 

首飾りやベルトで、いろいろな宝石や貴石のほかに、黄金で宝貝や牡蠣の殻がデザインされていた。これは、昔は、実際に宝貝や牡蠣をつかっていたからかな、とか。

宝貝は、ほんとうにきれい。

花びら宝貝とか、海のなかで、ほんとうにキラキラかがやいていてきれい。

お金の代わりにもなってたわけだし。

牡蠣は、真珠の親戚なわけだし。

それが黄金になっていた。

当時のエジプト人はことに黄金が好き、というより、黄金を尊重したのだそうだ。太陽信仰と関係があって、あの世は、朝日と夕陽の黄金の色だと信じられていて、それで、黄金を身につけていたのだとか。

今どきの人が、金をほしがるのとは、意味が違うと言うことらしい。

そういうふうに言われると、王のミイラがつけている黄金のマスクとかも、ただ、きらきらしく権威をつけてありがたく偉く見せるためだけではない、ということで、ちがった世界が見えてくる。

 

鋤だの手斧だの、水平器だの、そういう道具がすこし展示してあったが、どうせなら、もっといろいろ展示してあるとよかった。とても興味深かった。こんなある意味「原始的」な道具を使って、あのどでかい石の建造物をつくったんや・・・と。

思う一方、「ほな、どうやってつくったん?」となると、具体的にはなにも示されていなかった。

 

黄金のマスクも、いまいち。1㎜の金の板を打ち出してつくってあると言うことだったが・・・。

やっぱり、黄金のマスクと言えば、ツタンカーメンのマスクを思い浮かべてしまうので・・・。

 

そういうわけでもうひとつだったが、久しぶりのブログなので、いきなり、亀末さんのお菓子というのもなんなので、ウォーミングアップに、さえなかった展覧会のことから(笑


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