2018_05
03
(Thu)22:21

志野茶碗  アロン・サイス 造

サイズ的には、ちょっと、飯茶碗っぽい(口径最大13.0センチ 高さ7.5センチ)
もしかしたら、飯茶碗かも。箱もなし。
ただ、飯茶碗にしては、見所が多く、おもしろい。
小振りなので、両掌の中にすっぽり収まり、マイ茶碗って感じがとても愛らしい。
 
作者は、アロン・サイスさんというニュージーランド生まれの陶芸家。
メルボルンの陶芸学校を卒業して、陶芸の仕事をしていて、織部(桃山陶)に出会って衝撃を受け、来日。はじめ美濃にいき、益子で開窯。東北大震災で登り窯が壊れて、帰国、という、ざっとそんな経歴の人らしい。
公式HPがあり、「楽茶碗」をつくっている様子がアップされているが、ご本人は、モヒカン^^ ちょっとたとえは悪いが、「北斗の拳」の下っ端の悪役のような・・・。
 
ま、それはいいとして、この茶碗見たとき、「おっ」と、かなりびっくり。
というか、「これこそ、織部だ」って。 
というか、これを見て、「織部(織部に象徴される桃山陶)」の本質を悟った気がした。
つまり、異文化と異文化の衝突。それによって生まれる焼き物。
「織部」や「桃山」のかたちを模倣して、それをさらに延長している、というのが、よく見かける「織部」。でも、それは、「織部」というのを形式化して、それを模倣しているに過ぎない。それは、「織部」の姿をしているが、「織部」ではない。
 
日本の陶芸家、陶芸作家は、こんな茶碗を作らないし、作れない、とも感じた。
異文化と異文化の衝突を内面のふかいところで経験している作家なんでどれほどいるだろうか。
また、日本の作家は、知らず知らずのうちに一定の美意識に規定されてしまっている。古い茶碗、美しいとされる、良いとされる、古い茶碗を見てきていることによって、知らず知らずのうちに美意識が方向付けられてしまい、そのなかでしか茶碗を作ろうとしないし、作れなくなる。これは、一方では、結局、千家流という大所帯の好みのものならそれなりに需要がある、ということにもつながる。作家だって、霞を喰って生きていくわけにはいかないのだ。
ニュージーランド・オーストラリアは、ヨーロッパやアメリカに比べれば、ジャポニズムの影響は希薄なのだろう。ヨーロッパ・アメリカだと、印象派が 流布した日本的なものに知らず知らずのうちに影響を受けてしまっているかもしれない。ウォーホルの「マリリン・モンロー」だって、かなり、日本的じゃない?
 
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正面。
志野釉の下に、鉄釉で不思議な絵?
まばらにカイラギになっている。
志野と言うより、萩を連想させる。
釉薬は、志野だから、志野茶碗、ということか。
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うら。
同じように釉薬の下に、鉄絵。
釉薬を指で波模様に拭き取ってある。
釉薬を拭き取られた鉄絵が、黒く焦げた感じに。
 
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側面。
指で拭き取ったところがはっきり。
口辺にぽちっと。雰囲気として、他のものがはぜたり、割れたりして、その陶片がこびりついた、というのを表現しているのだろうか。それとも、ここ自体がはぜて、こんなふうになった、みたいな。
日本人の作家なら、あまり、意図的にこんなことはしないだろう。
 
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もう一方の側面。
 
高台。
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高台、高台周りは土見になっている。
土は赤い。鉄分の多いもぐさ土? 志野と言うより、萩や唐津を連想する。
高台の造形も独特。繊細な渦巻き状になっていて、真ん中に釉薬がこびりついている。
高台の底面も独特な造形。
高台脇の土見のところに鉄釉がむき出しになっていて、その色は益子っぽい。
 
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見込みも独特。
志野茶碗ということなのに、まるで、焼きしめの、まるで、信楽みたいな雰囲気。
外側はっぷりの志野釉。見込みはうっすら。
全体に薄くかけて、外側は二度がけしてあるのかもしれない。
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しかも、灰がかぶっている^^
これって、ほとんど焼きしめの自然釉的な表現 と 井戸。
外側たっぷりの志野釉に、見込み、焼きしめ自然釉と井戸。こんなのも、日本人の作家ならあんまり、しないだろうなぁ。。。
 
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そして、見込みの底、茶だまりに、落款。
たぶん、落款。なんか、アルファベットのような文字があるようだけど、判読できない。
これも、たぶん、日本人ならしない(笑
するわけない、し、ここに落款おそうという発想自体がきっとないし、できない^^
 
たしかに、お茶を点てるとき、飲んだあとすすいで茶巾でふくとき、など、ちっょと注意が必要。
くぼみにお茶が詰まったりする。
 
と、まあ、とにかく、志野と萩と唐津と信楽と井戸を足して5で割って、ちょっぴり益子を、といった茶碗。
奧さんに言わせれば、「やりすぎ」「もりすぎ」なのだそうだ。たしかに、「わび・さび」的引き算の美学からすると、「やりすぎ」「もりすぎ」。
でも、そんなところも、異文化と異文化の衝突、とみえて、おもしろい。
 
それに、なにより、掌の中にすっぽり。が、ラブリー。
手触りもよく、軽め、高台にある重心の位置もいい。
手取りがとても良い。
ただのモヒカンではないのだ、この人は。
 
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